orangeitems’s diary

40代ITエンジニアが毎日何か書くブログ

人間というシステム運用、長生きできる考え方を構築する

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人間というシステムを自分で運用していて、なんとなく自己修復機能があるのを感じているけれども、これが完全ではないということを認識することが多い。

もし自己修復できなければ、単なる病ということではなく、慢性的なものになってしまう。これが一番生きててつらいパターンなのではないだろうか。風邪を引いたり精神的に疲れたりして、寝れば治ると人々は思い込んでいるが、実は必ずそうではない。

肉体的な場合は、後遺症と呼ばれる。いわゆる元に戻ることはないか難しい場合だ。それを人の意志で元に戻す試みがリハビリと呼ばれる。リハビリは一般的につらい作業であるし、必ず成功が保証されるわけでもない。

精神的な場合は、カウンセリングや服薬など、これもいろんな対応をするが、これをもってもやっぱり完全な状態になるかどうかは不明だ。そもそも精神的な場合には、何を完全とするかの定義も難しい。

おそらく、この自己修復機能に対する過信や、壊れることに対する鈍感さがリスクとなる。ところが、これを見向きもしないでどんどん状況に突っ込んでいく小数の人がいて、人々はこれを勇者と呼ぶ。自分が壊れることを恐れないし、壊れても自己修復できると思っている。特に若く、体力や精神力があるときに自信を付けた人に多い。ところが人間というシステムには限界はある。この限界に対して能力を超える出力を課したときに、器自体が壊れるのだ。そうした場合、これは自己修復はかなり難しくなる。実は勇者は世の中にたくさんあふれていて、そして傷つき、いろんな人が慢性的に何か抱えているというのが私の見方である。

こんな典型的な勇者像は確かに小数かもしれないが、どこかで人は無理をするし、特に若い時のイメージが強いほど自分はそうできるだろうと思ってしまう。これは年を取るほど衰えるというテーマではない。年齢を重ねるときに、体力にしろ精神力にしろ、まずは日々衰えないようにメンテナンスをしていく必要がある。何もしなければそれは能力が衰えていくのは当然だ。その上で精神力については、仕事の責任、という観点がある。仕事の責任は年齢とともに上昇するので、むしろ年齢を重ねてから自分の限界と相談する必要が出てくるというのがポイントになる。体力と精神力は、ビジネスの観点から言えば利用のされ方が違うのではないかと考える。

どちらにしろ、基本的な構造は似たようなものだ。壊れるものであるという前提が必要で、その前提とうまく付き合わない人は、むしろ肉体や精神の方からダメ出しを喰らい何らかの慢性的な不調が発生。それでも突き進むとかなりのペナルティーとなるような状況が訪れるという仕組みになっているように思える。

だから、圧倒的に思うのは、自分の底を意識し自分をいたわってやらなければいけないという考え方なり姿勢が生きていくに従い年々必要になるということだ。

体力については、これは地道にトレーニングすることで器を強固にすることができる。トレーニングが体をいじめることになっては本末転倒だ。負荷は強くなくていいので、続けられ、体が拒否反応を示さないくらいの負荷がいい。私は散歩を定期的にすることでこれを実行し、かなり体質が向上したと思っている。

一方精神力については、これは強くなる方向には行かないのではないかという見方をしている。人それぞれに、持っている精神力の器はある程度一定ではないか。ある意味、良い環境に自分を置いてやればそこまで消耗しなくても済むし、自己肯定感とも関係してくる。総合的に評価してやらないといけないけれど、これは過信すればするほど実は沼に入り込んでいたということが簡単に起こり得る。

もっと自分をいたわり、無理をさせない。心地よい状態を目指し、もし無理が発生しそうならば行動を変え、できるだけ自分の環境を良くする。もしできないのであれば、「社会的責任」が大きすぎるのかもしれない。人は、自分が理由ではなく、社会のために、他人のために無理をするのだ。それならば、社会を自分から変えていくしか方法はない。自分が壊れてしまっては元も子もないのだ。

こういった考え方で進むのが、人間というある程度矛盾を抱えたシステムを運用するのに向いていると考える。