仕事も楽しくない。趣味も楽しくない。何も楽しくない。
そんな人生もあるんだろう。私は、そうなりたくない、って強く思ってきたんだけど、だからと言って、仕事や趣味が強く自分の中にいて、それが助けてくれているとも思わない。
仕事が充実しないと、趣味が充実しないと、という発想が人間社会がお仕着せがちな思い込みのように思う。
もっと、適当に生きてもいいのではないか。他人より幸せにならなければいけない義務もない。自分が足りると思っていればそれで100点。
SNSに乗っかっている他人の情報なんて全部ウソだと思っている。自分が持っている自分の情報だけが真。ひとまずコントロールできるのは自分だけ。それなら自分がうれしがることを自分で探して与えることが、大事なのだろう。
自分をご機嫌にするために、自分が何ができるか、と言う視点。
自分のことは自分が良く知っているだろう、というのも思い込み。自分の何を自分が知っているのか。そこまで自分に、自分は経験を与えて来ただろうか。
恥をかきたくない、みたいなことで、結構いろんなことを避けて、楽な方に流れ、そのまま放置していないだろうか。自分のことを。
特に思うのは、人間ってとても実はだらしなくって、欲深くて、品のないこと。それを取り繕って人生を生きている。大人になるにつれ社会のことを知り、作法の存在をかぎ取って自分のモノにする。いつしか、みんな立派な大人になっていくのだが、それはそれ、自分の奥底にはベースとなる、だらしない・欲深い・品のない、が存在している事すら忘れてしまうのである。
自分のベースにある自分自身を完全無視し、社会の中の自分を自分自身と思い込んでしまうから、人生がつまらなくなっていく。
たまに、脱サラして、やりたいことに突っ込んでいく人をテレビなどで見かけるけど、まあ私はそこまでやるほどのやる気はない。仕事や趣味も、自分の適性や欲求をブレンドして、ベースを満たそうとはしてきたからね。全部ぶっ壊さないとベースまでたどり着けないなんてことない。
そう、仕事も趣味もパソコンなんだけど、結局は仕事を選んだ時に、子どものころから異様なパソコンへの執着があったことが前提となっていた。だから仕事自体は、楽しいとは言いづらいけど、自然と取り組めている。そこに仕事があるから、問題があるから解決しようか、ぐらい。問題解決したい欲求は心にあるので、パソコンとミックスして、仕事に前向きになれている。
趣味も、自分の「(下手な)ギャンブル好き」を満たすことも兼ねて競馬を楽しんでいる。これも勝つことはあり得ない前提で少額で遊んでいる。やっぱりこれも、自分のベースとよくフィットしていて、延々と飽きないで取り組んでいられる。
ちなみに、映画もほとんど見ない。小説も読まない。マンガも最近はあんまり読まないな。ゲームも全然。昔は確かに嗜んだけど、おそらく、主人公が若すぎて感情移入できなくなったんじゃないかな。基本は若者が主人公だからね。音楽はその点抽象度が高いから、まぁJ-POPは同じ理由であんまり聴かなくなったけど他の音楽は良く耳にしてる。
だから、年を取ったからとか、そういう理由で感性が鈍化し楽しめなくなる、という仮説はウソだと思ってる。年を取ると楽しめなくなるコンテンツがあるだけ、っちゅう話で、楽しめるものはほかにある。
自分にあまり絶望しないで、色んなことをやらせてみてあげて欲しい。どこかで食いつくようにできてるから、あんまり既存の娯楽ばっかりにこだわらないで、全くやったことのないことなどに挑戦してみるといい。本当にいい。
人生が好転しない人は、過去ばかり見てるんじゃないかな。自分は変わっていくので、より向かい合って、自分に楽しい(かもしれない)ことをいくつもさせて探ってみるのがコツ。