orangeitems’s diary

40代ITエンジニアが毎日何か書くブログ

戦争は人間には管理できない

 

ここ50年くらいを眺めてみると、私の若い頃は、戦争はアラブ地域に閉じ込められていた感がある。先進国が戦争をすることは非経済だし、一度始めたら持っている戦闘力を踏まえると制御できなくなるんじゃないか、という懸念があり、やり合わないのが普通、と思われていた節があるし私もそう思っていた。それより経済競争をして、お互いの国が繁栄し、豊かになればいいという雰囲気を信じていた。

その均衡した状況が破られたのは何と言ってもロシアとウクライナの戦争だったと思う。両国とも文化水準は高かったし、今までの紛争とは話が違っていた。「アラブ地域だから」という妙なバイアスが通用しないものだから、世界は緊張したが、どうせすぐに鎮静化するだろうと思っていた節もある。ところが、状況はもう2年も継続しつつあり、だんだん「戦争が普通にある世界」に人々が慣れ始めた。戦争とはドンパチやって勝ち負けを決めるという、ゲームで馴らされた感覚、とは全く異なる。延々と相手が降伏するまで継続する。拮抗していると長期化してしまう。戦争は日常になり、人々の思考に組み込まれてしまうのである。

そこに、イスラエルとハマスの戦争状態が発生した。まさにアラブ、である。ただ、イスラエルは支援している国を見ても分かる通り、西側の先進国の象徴のような存在であり、しかも宗教が大いに絡んでいて日本人は理解することが難しい。単なるイスラム圏のいさかいという話では済まない、大きな問題が顕在化してしまったと言わざるを得ない。

これも、「戦争が日常である」という概念が現実化してしまったことの延長であると私は思う。いろんな取り得る手段の中で、平気で人やモノを傷つける行為が現実的な選択肢の一つになってしまった。これは、今実際に戦争している人々だけの問題じゃない。人類の潜在意識の在り方が共通して変わりつつあるということに対する、警告である。

ただ、この二年ほどでわかったことがある。戦争した結果は人間に管理できることじゃない。こうすれば、こうなるだろう。そうやって人間は試行するが、そうはならないし、それどころか全く見ていないどこかで何かが起こる。80億もの人間が地球に暮らしていて、施政者はほとんどその人々の意思を知らないで想像しているだけなのだから、基本的に誰が何をするかなんて管理できるわけがないのである。一度初めてしまったら、わけのわからないことが偶発的に発生する。なのに、戦争をする手段が、人々の日常へ染み出してしまったのだから、今現在進行形で想定外が連続している。その一つがもう中東で起きてしまった。

キーマンのアメリカにしろ、ロシアにしろ、まだ管理できると思っている節があり、多面的に戦争を展開する気配が強い。なお中国に関しては国内事情もあろうが、どうも発言や態度が抑制的になっている節があり、実は期待しているところであるが、多方面から期待され過ぎている。右に偏れば左から刺され、左に偏れば右から刺されるような状態で、歯切れが悪いのもうなづける。何もしないのが、何もやらないのが吉、というのは正しいのかもしれない。

過去、第二次世界大戦では、世界中がメッタメタになり、もうやめようというところまで行って初めて止まり。その記憶を持った人類がある程度は抑制的に平和を希求できたと思う(もちろん、個々の紛争は止まらなかったのではあるが)。第二次世界大戦がいよいよ歴史の一ページになってしまい、人々が記憶にない戦争手段に手を付けてしまった。

世界が一つに集まって競技するスポーツ大会のような場所でも、一つに集まれないような事態が現実化しつつあり、私が暮らしてきたこれまでの世界は様変わりの最中にある。デジタルは人々の気持ちの伝達を促進し、世界がわかりあい一つになる、みたいな思想はもう頓挫していると思う。むしろわかりあえないことが、わかってしまった。

相手の気持ちなんて、わからないほうがよかった。分かれて静かに過ごすに限る。世界が戦争手段を捨て、平和に戻る日が来ますように。