orangeitems’s diary

40代ITエンジニアが毎日何か書くブログ

言葉にすることで、問題は問題となっていく

 

ここ1年ほど、仕事において問題のあった状況に取り組み、立て直しそして未来が見えるぐらいの場所まで改善した。過去の状況があまりにも良くなかったこともあり、比較してかなり状況は改善した。過去と現在の差がかなりあり、こんなに良くなったのなら、もう安心していいのかなとも思っていた。

今日、関係者と未来のことについて話を交わしたのだけど、安心していいという状態になるにはまだ早いことを思い知らされた。他人と話をすると見えていない方向に、見えていない問題が置かれていることを知らされる。

つくづく私は楽観主義なんだなと痛感してしまう。何らかの形で問題が言葉として表現されればされるほど、そこに問題があるんだな、問題を片づけたいなと頭が動いてしまう。その問題の数が多ければ多いほどなんだか、とても難解な状況に置かれているように思ってしまう。いや、思ってしまった。

この時点で、昔の私なら、1つ1つの問題に対して頭を巡らし対応してしまう愚を行ってしまったかもしれない。今は違う感想を持っている。言葉にしたものは、1度言葉にしなかった状態に戻ろう。言葉にしてしまうから問題になってしまう。話さなかったら、聴かなかったらその問題に気づいていない。ということは、今の時点でその問題が解決できるパワーがない。タイミングにない。全ての問題を一度で片づけることはできない。

一旦放っておきながら、問題が改善する時期をじっと待とう。一度蓋をして、心を落ち着かせる。必ず今日知った問題は、現実に影を落としてくるに違いないが、今ではない。今何でもかんでも取っては投げ取っては投げすると、うまく行っていることすら行かなくなる。何らかの偶然が重なって均衡を保っている組織なんてたくさんある。一つのピースをずらすだけで根本から崩れてしまうようなことは、どこでもある。

 

言葉にすることが万能ではないこと。ところが今後、万能に言葉をする機構、生成AIが人間の疑問を全て言葉にしようとし、人間が言葉と相対してしまう。本当にいいことなのだろうか。それがフェイクかどうか、というようなありきたりな話ではなく、真実を言葉で知ってしまうことで、人々の心は変調するのではないか。

人間は、これは言葉にしない方がいいんじゃないかな、という感覚を持っていて、問題だと思っても口にしないことで脳を刺激せず、問題の本質に迫らずになし崩し的に問題が無くなるのを待って、そして忘れていく性質があるような気がしている。

その機構が無視されて、あらゆることが言葉になっていき、それをたくさんの人が目にしたときに果たして人々は正気でいられるのだろうか。

昨今、言わなければ問題にならなかったことが次々と暴かれ、言葉にされ、そして立ちいかなくなっている案件が次々と起こっている。ほんの少しまで、社会の最先端で笑顔を振りまいていたような知名度を持っていた組織ですら、ひとたまりもないことを知らされる。

問題はそこにあった。長い間。言葉にすることがいいのか悪いのかはともかく、人々の行動や心理を大いに揺さぶる。言葉にするタイミングやその量が度を過ぎると、何か大きなマイナスのエネルギーを引き起こすことも知っておくべきと考える。