orangeitems’s diary

40代ITエンジニアが毎日何か書くブログ

他人にスペックという言葉を使っている人をみてゾッとした

 

最近はXのほうによく出入りしていて、そこからのインプットが多めだ。その中で、ある書き込みを見た。配偶者に「スペック」という言葉を使っていた。年収や学歴、見た目などでスペックが低いと評していた。スペックが低いけれど私は気に入っている、みたいな書き方だった。

何度も考えたが、他人にスペックが低いという言葉を使うのは、どう考えても天然で、人を条件により見下している感覚を持っていると自供しているようなものだ。

人生が、それまでの経歴にて優劣が決まってはおかしい。有名大学に行って有名企業に就職し高収入、もしくはたくさんの資産持ち、使い古された高スペックだとそんなところか。社員採用やら婚活やらで、そういったパラメーターが多いに武器になるのは知っている。ただそれは人間のほんの一部の側面を表しているだけで、人間そのものではない。究極を言えばどんな人にも個性があり、能力があり、そして固有の経験がある。決して、家電やコンピューターのように、性能表で議論するものではない。

あっけらかんと「スペック」という言葉を使う人は、世間が、特定のパラメーターによる人物評価を暗黙的に行っていることが当たり前になりすぎて、ふとポロリとこぼしてしまったのかもしれない。

冒頭のPostでは、配偶者の「年収」も範囲に入っていて非常に怖くなった。それなら男女の収入格差が明らかな現状では、夫が妻のスペックが低い、と思うのが自然になる。しかも、専業主婦の生き方そのものを否定している。パートなどをしても夫の年収を超えることは絶対にない、からね。

スペックという言葉が怖いのが、限られた場面でしか使われない一定の尺度が、あたかも人間自体の価値を表すものさしのように機能してしまうことだ。そんな大げさな、と思うかもしれないが、言葉が人の心に及ぼす影響は異常に大きい。何の影響変わらないが、人が他人にスペックという言葉を平気で使うのに違和感を持たない世の中になりつつあるのであれば、それは恐ろしい事態であると定義するべきだと思う。

というのも、この年までたくさんの人と接するとよくわかる。その「スペック」とやらで人そのもの価値を測るのがどれだけ無駄で無意味なことか、ということだ。一致と不一致の両方を行き来して、「これは無関係だ」ぐらいの感覚までは得ている。

もっと良くない点がある。他人にスペックという単語を用いることで、自分に対してもその尺度を当てはめるということになる。そうしたときに、そのスペックが想定するある一定の結果を自分の価値と錯覚する。学歴が高い場合に収入が低いと「社会がおかしい」とか言い出す。認知的不協和という。スペックが高い自分はこれだけの評価が社会からされるべきなのにされない、なんてことを平気で思うようになる。他人に使うということはそのまま自分に返ってくる。

このスペックという言葉、きっとどこぞの誰かが、皮肉をこめて使い始めたはずだ。ところが、段々と一般化して、ごくごく自然に人の思考に入り込んでいったに違いない。最近は、新卒採用時に、人間がある場面においてはスペック思考で振り分けされていることもわかった。求職者に対してAIでの自動振り分けすら実装され始めている。

だからといって、人間自身の思考がそちらに引っ張られるのはとうていおかしい。人と人とのコミュニケーションにはたくさんの可能性があるはずなのに、スペックで見下して話す前の時点から下に見る、なんてことが横行している。

なんと、愚かな判断だ、と思うわけである。