orangeitems’s diary

40代ITエンジニアが毎日何か書くブログ

どんな情報でも得られそうに思える時代を生きる

 

Google検索に、知りたい、問い合わせしたいキーワードを入れると、とにかく何か返してくれる。動画で見たいという需要もあるのでそこはYouTube。音楽やスポーツなど、言葉では伝わらない非言語的な情報もカバーできる。また、まとまっていない口コミから情報を得たいなら日本ならXか。写真ならインスタという手段もある。

有料作品も、ドラマならネットフリックスで、アニメならdアニメストアか。音楽系のサブスクはたいていのサービスなら何千万曲というボリュームで無限アクセスできる。

この情報の渦で、たいていの人は、どんな情報でもネットから得られるという錯覚をする。だからネットから切り離されるのが怖くて、街を歩いているとスマホ片手に歩く人のいかに多い事か。むしろ歩くことに集中できておらずスマホの画面を凝視してフラフラ歩く人もたくさんいる。きっとネットからなだれ込む情報の交通整理に必要な活動が、自分自身の能力をオーバーフローしているのだろう。そういうときは、一度ネットから離れてみて、不必要なメディアをフォローしていないか考え直すべきだと思う。心が疲れてしまうから。

 

しかし、この「どんな情報でも」と言う部分、かなり人間に錯覚を与えていると思う。ネットの情報にはいい加減な部分が多い。間違った情報も多数ある。検索結果は、正しかろうという順番に機械が重みづけして表示しているのだが、その結果を使うかどうかを決めるのは読み手自身だ。どこまで行っても、正しい情報をつかむための才覚が必要となる。

どれが正しい情報かを判断する能力とは言うが、逆に全部間違っているということすらある。そのときにも冷静な判断ができるかどうか。私は、全部間違っているという前提で情報を見ることが多く疑い深いが、これだけ情報量が多いとそれでも成り立つぐらい、取る情報には気を付けないといけない。

最近、AIとお付き合いすることが多い。AIは色んな結果を返してくれるから楽しい。AIが何を返すかは「モデル」によって大幅に変わる。モデルとは、学習した結果を保管しているファイルだ。データの量が多ければ多いほど様々な結果を打ち出すことができるようになる。最新モデルが発表される度に、学習データは肥大化している。たくさんの情報に触れれば、より優秀になるという前提に立っているように思う。

しかし、どう考えても、AIの良し悪しは今後は、「何の情報を学習したか」の質・量に依存すると思う。今のように、何でもかんでも無差別にデータを取得したら、間違った情報まで正しいと思い込んでしまう。

モデルに放り込む知識量を競うのではなく、より正しいとされる情報のまとまり、のようなものが今後重要視されるはずで、その情報自体はどこにあるのか、という話である。それらは、人間の手によって事前に正しいことを確認し、整理されているという前提を持たざるを得ない。

つまり、このインターネットにある情報というのは、今のAIの現状とよく似ている。有能そうに見えるがすぐに騙される。正しそうな情報に飛びつきがち。

本当に正しい情報というのは、未だ、流通されておらず、富を持っている一部の人たちが秘密裏に保持しているのである。

もし、全てがネットにあるのなら、学校にも行く必要もなく、師に学ぶ必要もない。高いお金を払って情報を買うという状況は全く変わっていないことを踏まえるべきだ。

ネットや無料のAIを操って賢くなっているように思うのなら、それは間違いだ。いくら、情報処理が追い付かないぐらい情報におぼれたからって、賢くなるわけじゃないことは知っておいてほしい。