orangeitems’s diary

40代ITエンジニアが毎日何か書くブログ

話題となっていることなど、何の意味もないのかもしれなくて

 

地球に生まれついて、いくつかの社会を経験しているけれど、ああ私はどんな環境にいようが集団になじめることはないな、という確信めいたものがある。集団行動が苦手なのは間違いない。ただし集団をかき乱すことは好きではなく、孤立することも嫌いなので、至って自分のペースを守りたいだけである。まず自分の領域を集団に対して確立した上で、後は着かず離れずで、必要な集まりには必ず顔を出す。言うべきことだけ言う。関係ない事には口を挟まない。集団との付き合いなんてそれ以上やっても疲れるだけだ。得るものも少ない。キーマンだけは把握し、その方のことは精一杯誠実に対応しておけば、なんとかなるもんだ。基盤さえ作ってしまえれば、自分のペースを守ったとしても、「あの人はああいう人なのね」と思われてしまえばそこまで混乱は起きない。

なぜにそこまで集団を嫌う?と好奇心のまなざしも感じるのだが、これはもはや生理的なものと考えるべきだ。私も社会とは何かについては、長い間悩みのタネだったので観察は欠かさなかった。社会が好むパーソナリティーは、明るくて、人気者で、誰にでも公平で優しい。ああ、そうなれたらいいなと思って長い間努力し、どうやっても途中で無理が生じてしまって疲れ果てるような経験を繰り返しして、ああこれどうにもなんないや、と開き直ってから楽になれた。そもそも、本当に社会が望んでいるかすらあやしいし、社会って誰やねん、連れてこい、って思い始めたら確かにその通りだとも思った。

よく、あのゲームが何千万本売れたとか、この映画が話題だとか、耳にすることがある。そんなに面白いのか、やったほうがいいのかな、なんて思ってたけど、いざやってみると期待外れなことはよくあった。これも、私がなじめない社会が支持したものが、自分も支持できるかというだけの話だった。多分に価値観から感覚まで、多数派とは違うのがどの社会に行っても観測されるので、多数が支持したことが自分に取って価値ではないということは証明されたようなものだ。だから、逆に大人気のものに近づかないのがある種の攻略法のようなものになっている。

と言うのも「世間で人気とされているものが、そこまで自分の欲求を満たしてくれるものじゃない」と言う感覚は、一般的に存在しうるものだからだ。私が狙うならむしろ初めから、その部分ではないか。普通に生きているだけで少数派なのだったら、普通に行動したり発言したりするだけで、隠されたユニークな価値を見出せるのかもな、なんてプラス思考をしている。

傍から見たら、単なる変わり者だけど。そうとしか生きれないんだからしょうがない。話題のものについては遠巻きに見て、へえそんなものが流行ってるんだと頭には入れつつ、そうじゃない物を自分の感覚を基準に探していく、そんな日々。

だから、大人気になって注目を浴び続ける会社やそのプロダクトなんかは、時間と共につまらなくなる。これを「大衆化」と呼ぶ。なんて一人で思ってたって、大衆には大ウケしているんだから放っておけばいいんだけど、今日もまた誰にも見つかっていないような路傍の石を探しに生きている今日なのである。