orangeitems’s diary

40代ITエンジニアが毎日何か書くブログ

休むことを強いて心がける必要がある時間がある

 

なんとなく仕事・仕事・仕事・・みたいな頭の使い方で、休みの日を定義すると、何か予定を入れないと不幸感が生じてしまうのではないか、と感じている。趣味として何を選ぶかは結構バラエティーがあり、映画だの自宅での動画鑑賞、ゲーム、買い物や食事。娯楽、ギャンブル、旅行等々。マンガ、小説などの本を読む、でもいい。

世の中にはたくさんの休日にまつわるコンテンツがあり、そしてそこそこそれを楽しむ経済力がやっとついてきて、さあ、時間がないよもっと消費しないと・・という思いにかられる瞬間がここ1年くらいあった。

他人からみて度を超えていると思われるくらいには、休みの過ごし方を遊ぶことに費やしてみたものの、ここ最近、何かおかしいな、という違和感を感じ始めた。相変わらず楽しいのだが、振り切っている割には思ったほど楽しめていない気がする。

これは何かな、と思って一度立ち止まってみた。

必要なのは「休むこと」だった。休みにアクティビティーを入れていたことで、仕事と仕事の間に、アクティビティーがあり、結果として自分が自分を休ませていない。

きっと、仕事脳においては、効率や成果をものさしにするので、遊びにもそれを当てはめていたに違いない。

ずっと効率や成果を人生に並べていくと、消耗していくものがある。それは、気力だったり体力だったり、だ。つまり、疲れ、である。

この疲れというもの。きっと若い時は、寝れば回復するようになっている。だから20代くらいで超人的な成果を出している人たちは、寝ないで休まず仕事して偉業を成し遂げた人たちが多数存在する。

それと同じことを、40代後半の人間が行ったら、目減りするのである。

目減りしたら何が起こるかと言うと、楽しさ・うれしさ、みたいなものの最大値が減少する。娯楽に取り組んでいても、達成しても、何となく冷めている自分がいたりする。

大きな目で見れば、これは効率的じゃない。成果も出ない。そうなると、なぜだか少し不幸な気持ちになっていくのだ。世の中にはこんなにたくさんのコンテンツがあるのに、なぜ私はそれを選べず、楽しめないのだろう、と。

ここまでになったら必要なことは「休むこと」となる。

何かをして余暇を埋めるのではなく、何もしないことで埋める、ということを意識してやること。昼寝でもいい。何もしないことを基準において、できるだけ怠ける。

そういう、効率や成果と切り離した、何もしないことを目的とした時間を、自分に対して定期的に設けると、心や体が回復する。

回復するから、仕事の時間も効率が上がり成果も上がる。

回復しきったら、余暇にまたコンテンツを楽しんでみてもいい。そしたら、きっと楽しめるようになっているはずである。

 

この考え方でいくと、それでは、どの程度休みに、何もしないべき?。何割ぐらい?と考えてしまうが、それこそ効率主義の悪いところだ。

きっと、飽きるまで何もしなきゃいいのである。

飽きがこない、何もしないって楽しいな、って思える間はじっと休めばいい。

実は今、そういう時間を楽しんでいて、ああちょっとやり過ぎたなと反省しているところだ。それそのものも楽しいのは、やり過ぎたからであり、やり過ぎたことそのものは反省していない。

人間、休みに休まないと目減りする。その結論を体感できたのは、自分にとって財産になったなとは思える。