大学を卒業する意味を今さら知る

 

昨日の教養の記事で気づかされたが、教養を身に着ける必要性に対して、大学を卒業することの意味が透けて見えた。

大学を卒業するためには、確実に専門科目を取得し卒業をする必要がある。どんな専門科目かは幅広いが、とにかく最後は専門性に行きつく。

どんな専門科目についても、知識を単に暗記習得するのではなく、集めた知識を持って問題解決する能力があるかどうかが問われる。問題に対して、さまざま文献から情報を取得したり、実験を自ら行ったりして、まずは考察のための証拠集めをする。その後、問題解決のためにそれらの情報を統合し、論理立てて話を進め、最後に結論を持つ。

この方法論自体は専門科目によって違いはあるだろう。例えば芸術系の場合、技術をまず持たなければアウトプットもできない。いきなり筆を握っても絵は描けない。とはいえ技術だけあっても、問題意識が無ければ何も生まれない。

いろんな専門科目はあれど、成果を出すにあたって適切な方法はどこでも用意されている。これを身に着けてしまえば社会に出て、バラエティーに富んだノージャンルな問題が自分に降りかかってきても、大学において学んだ問題解決方法で対処できる。これが大学卒業が持つ機能なのではないかと思った。

そう考えた時に、一昨年あたりから大学がリモート授業に切り替わったときの、大学生が孤独になる問題。サークル活動もできず、授業を通じたディスカッションも消化不良となる件。これは、教養を学ぶ上でコミュニケーション能力を得るための訓練が不十分になる。今はできるだけリアル授業に回帰する取り組みが行われているようだが、これは当然だと思う。教養の中にコミュニケーション能力が組み込まれているのは正しいと思う。そして大学は、これを鍛える場でなければいけない。

そして、私も随分古い話だが、大学生のときに、なぜ専門じゃない科目をこんなに取らなきゃいけないんだろうと疑問に思ったことを思い出した。これは、様々な知識を得ることで多面的に問題を捉えられるようにするための訓練だったと気づく。それらが身に付くどうこうより、こんな世界があるんだよということを入口だけでも知っておくことで、いきなり問題解決に走るのではなく、まずはよく目の前のものを見て理解せよ。理解するためにはいろんなことを知っておく必要があるんだよ、というメッセージなんだなと今頃になって気が付く。

大学のランクは、受験時のハードルの高さにしか過ぎないのだけど、中に入ってからは結局目的は同じだ。であれば、社会が大学卒業に重きを置くのも理解できる気がした。学科を若干軽視しているのもこういう理屈だ。どんな学科を経由しようが専門をきわめていれば応用できる。そして問題を正しく知る多面的な価値観を有し、コミュニケーション能力を鍛えられた。そうやって教養を得ている人は、自社の問題解決に対して実績を出すことができるし、その期待に大学も答えてきたと言えるだろう。

そうやって考えると「教養とは何か」という問いかけに対する答えが、大学のホームページに掲載されているのも理解できる。