がんばる/がんばらない
あえて引用はしませんが、ある記事を読みそしてその反応を読み相いれないものがあったので記事に起こします。
冒頭の
「がんばれという指示を出していない。完成させればいいんだよ。」
という文章は、私が大昔に仕事していた常駐先のお偉い方から言われた言葉です。その方は何度もこのようなことをおっしゃっていたのですが、私の座右の銘になっています。
仕事って、がんばることが価値みたいになっていませんか。
がんばったことを{同僚に、上司に、部下に、お客様に、家族に}見せれば褒められて評価が上がるという風潮はありませんか?。
結果がすべて
実際のビジネスの世界は全く「がんばり」でまわっていないのです。私にとってはこの言葉は非常にその後の指針になる言葉でした。
残業しようが、徹夜しようが、プライベートで勉強しようが、仕事で結果が出なければ全くの価値にならない。
むしろ残業も徹夜もしないほうがいい。コストがかかるから。
すごくドライですが、現実です。しかし、がんばることを価値と思っている人はすごく多い。これは教育も関係していると思います。
去年より、今年の方が成長した。がんばったからだ。今はそんな教育が主流ですよね。絶対評価の世界。全員がポジティブに成長してほしい教育界にとってはそれでいいと思います。
しかし、仕事は競争です。
何を持って競争しているかというと、がんばり、といった主観的なものではなく、仕事の内容とそれにかかる時間とコストです。
がんばらなくてもいいので、早い時間で品質の良い仕事を安くアウトプットすれば、それは大いなる価値で、勝ちです。
がんばって結果が7だった人より、がんばらなくて結果が9だった人のほうが勝ちです。
また、がんばって結果が7だった人と、がんばらなくて結果が7だった人は、引きわけです。がんばるということが残業や休日出勤だとしたら、がんばらない人のほうが勝ちかもしれませんね。
がんばりを強調する人、強調する会社、私とは相いれません。別にがんばらなくてもいいじゃないですか。顧客が希望する納期・コストで希望する仕事を納品すれば良いのです。
がんばりは心の中だけで
だから、「がんばろうぜ!」という掛け声が私は好きじゃないんですね。
個人的に思うことはあるんですが、人に強制する話でもなければ、周りに伝える話でもない。
仮に部下が、「不完全かもしれないががんばった」と主張するならば。
私は「がんばらなくてもいいから完全にしてくれ」と言います。
むしろ、不完全であることから自分を守るために、がんばるという言葉を使われるのが非常に厄介です。
もちろん仕事/ビジネスの上だけですけどね。
ボランティアや家庭の場で、こんなこと言ったら、何とかハラスメントですよね。
優秀な会社は、がんばらないで、がんばっているふりをする
商売をしていてですね。
「がんばりますから、料金はこれ以上じゃないとダメです。納期はこれ以上じゃないとダメです。これをやっていただかないとダメです。」という同業者っていらっしゃるんです。
こういう同業者って、実は競合としてはありがたいんです。
もし、料金は格段にそれ以下で、納期はもっと短く、実施条件ももっと有利にできる技術を持っているとします。そうすると、適正価格や納期はもっと安くなるはずですよね。
しかし冒頭のように、頑張ってもここまで、とお客様は聞いているのでこれを利用できるんです。少しだけ料金を下げて、少しだけ納期を下げるんです。
そうすると、(コストも納期も余裕があるので)全然がんばらなくっても受注できるし、お客様にはがんばっている「ふり」をすればいいのです。そうすれば、利益は最大化できます。お客様も大満足です。
ずるいでしょう?。でも、ビジネスってそんな理屈で動いているんです。
競合が、がんばっているアピールをしだしたら、ああそこより納期もコストも落とせないんだという線なので、自分たちの技術がそれより上かどうか吟味し、明らかに上なら攻め込めばいいということです。
だから、「がんばっている」アピールはお客様に対しても自分に対しても無意味です。むしろがんばる/がんばらないは価値ではなく、作り出した成果物そのものが価値であるという価値観を守らなければいけない。そうしないと、何らかの生産性向上を行ったら、お客様が「じゃあ工数下がるから料金下げてよ」みたいな話になるのがオチです。心当たりはありませんか?。
したがって、社内で仕事をするときも、お客様と取引をするときも、「がんばり」なんて要素を持ち込まないこと。工数見積、人月商売、残業、がんばりをお金に換算しているようで私は嫌いです。
「がんばれという指示を出していない。完成させればいいんだよ。」
名言です。