昔の話をすることの意義

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昔の話をすることにはリスクがあるらしい。

 

togetter.com

 

らしい・・といいながら、私は相変わらず昔の話はしていきたい。

ただ、昔はこうだった。昔と今は違う。今はおかしい、なんて文脈で話をするのは愚かなことで、これがリスクの元なんじゃないかと思っている。

特に昔の話が役に立ちそうなのは、今当たり前になっていることが、絶え間ない努力の結果によって成し遂げられたということ。

私が子供の時・・30年くらい前は、ものすごく、第二次世界大戦の戦時中のことを来る日も来る日も学校も、そしてメディアも語っていた。今、目の前にある平和は先人がどれぐらいの血を流して手に入れたものか、と。

さてこの時代、誰も戦時中は・・なんてことを言わなくなったのは、その時代に生きた人がどんどんいなくなっているからだと思う。風化と言う。風化する前に情報を整理しそして歴史にしていくということを人間はやっていかなければいけないのだろう。そうしないと、後世の人間が都合よく妄想で歴史を組み替えてしまう。たまに、過去の文献を全て焼き払うような事件がたまに起こるが、そうならないように、見て来た人たちが努力して事実を組み上げる必要がある。誰かが改ざんできないくらいに精緻に。

昔の時代も今考えるとたくさんの矛盾に満ち溢れていたけれど、活気だけはあった。この活気を元に、昔は良かった論者が現れるが、いや矛盾が活気を呼び込んできていたわけではない。昔より良くなったことはたくさんある。事実、よい暮らしをしている。社会はもっと陰湿だったし暴力的だったし無法地帯で、倫理も無かったのだが、今や、特にインターネットのおかげである程度リテラシーの高い情報に全員が触れられるようになったと思う。言っては何だが、インターネットが無かった時代は、テレビと新聞が情報の全てだったが、特にテレビの動画のパワーはすごかった。そうか東京はこうなっているんだな、と地方民に妄想を植え付けていったし、それが東京一極集中の基盤だったように思う。誰もが東京に幻想を持ち、東京に引き寄せられた。私もその一人である。

それが、「やりすぎ」であったことは誰しも認めるところで、地方がこのままでは成り立たなくなると地方創生の概念が10年前くらいに盛んになった。それはおそらくコロナ禍が加速させてくれて、どうも東京からの流出まで起こっているとか。確かに、今や物理的な一極集中は多くの人間にとって不経済であるという転換が、ここ数年で起こっているのは興味深い。

このように、50年前くらいから今までを、見て来たかのように話せるのは40代後半の特権である。だから若い人は話をしてはいけない、ではなく、正しい歴史を伝え、試行錯誤がどのように行われれば現実化するかを今のうちに伝える、もしくは伝えられ得る文章を編まなければいけない思う。

インターネットにこうやって文を載せれば、あたかも歴史が紡がれていくように錯覚するが、どうもこういったデジタル上の文章は、数年で消え失せる運命のようにも思う。某ネットメディアも記事ごと消して消滅するらしいし、私も、こんなに記事を4年ほど書いてきて、2500記事ほどあるが、はい非公開、とすれば消えるだけの話である。

だから、事あるごとに、誰かに何かを伝えていく、それだけだ。それを、「リスクがあるから、不快をもたらすから昔の話をしない」というのはどうかと思う。謙虚に誠実に、今とそして少し昔の時間の代表として、私はお話をしていくべきだと、思う。こんなことも知らないのか、じゃなくてね。