orangeitems’s diary

40代ITエンジニアが毎日何か書くブログ

一人の人間が、一定時間に「判断」できる数は限られるという前提

 

とてつもなく今忙しいのだが、忙しさというのを研究・検証するにはいい機会である。自分の中に何が起こっているかを、客観的に振り返ってみる。

忙しいというだけでは解像度が低いな。単に手を動かしている、口を動かしているアクションの数が多いというだけでは、意味を満たさないと思う。脳が疲れている状態になって初めて、「あ、忙しい」と感じるのではないか。

そう感じた際に、パフォーマンスが落ちるのである。普段できていたことの品質が下がる。もしくはスピードが下がる。できていたことができなくなって初めて、忙しいと感じる。

それでも仕事はせねばならぬので、優先度の高い順番から取り掛かっていく。この際に、優先度の取り間違いみたいなことすら起こる。もっと優先しなきゃいけないことがあるのに、その判断すら誤る。なぜこっちをやってしまったのか、と後悔するようなことが忙しさの中で起こる。

このパフォーマンスの劣化を引き起こすのは何だろうか。私は「判断すること」の回数に尽きると思っている。右か左かそれともやらないか。頭で計算して答えを見つけることを判断という。この判断、に対して脳が結構リソースを使っていることに忙しさの中で気づく。何度か判断を繰り返していると、明らかに脳の機能が劣化していく。

一本道で先が長い、というときも確かに言葉的には忙しいなのだが、案外脳のリソースは使わない。だから長時間の仕事でも耐えられるような気がする。体力的な問題がなければ。

ところが、マルチタスクが発生し、しかもそれが、判断に彩られた仕事ばかりだとしたら。全てを頭に入れただけではなく、それを理解し、先読みし、そして答えを下さなければいけない。しかも正解を前提として。

「いっぱいいっぱい」というが、人間の脳で一定時間に使えるリソースも有限なんだと思う。判断する度に、消耗する。ある程度の消耗具合を超えると、判断する品質が落ちる。スピードが無くなったり、正確さが欠けたりする。

 

で、今日まさに、日中に忙しさのピークが私に訪れた。

朝からとみに忙しかったのに、今からまた、判断が必要な仕事が待っている。で、やろうかと思ったら、手が止まったのである。

忙しいのに、手が止まる。

これは面白い。つまり、ゼロになったということだ。あまりにも短い期間に判断を繰り出したので、頭が疲れてしまって、もう何もする気が起きなくなってしまったということ。

そこで、ゆっくり席を立ち、コーヒーを取りにいったのである。もう、動かないんだから、じたばたしてもしょうがない。自分が回復するまで、目の前の仕事達、そこに座っとれ、と。知らん。できんもんはできん。

さて、ここまで忙しくした自分がスケジューリングミスをしたのか、それとも、どうも社会が活性化していきなり仕事がポンポン生み出されているのか。何しろ手が回らない。いや、回る手はあるが、頭が動かない。頭が動かないから、手が動かない。

ここまでのことになったら、やはり思い切って、一休みするしかない。

忙しいということは、短時間にやり遂げようと思っている前提なので、時間をもっとゆるやかに考えてみる。優先順位の低いことは、思い切ってもっと先に期限を切ってみる。忙しい時に劣化していくのは能力の問題ではなく、そもそも忙しさ自体が問題だと捉えないと危険かもしれない。

コーヒーを飲みながら、少しながらの忙しさへの敗北感も感じながら、人間の限界というものを感じる。一人の人間ができることは限られている。もっと生み出していくには、誰かの手を借りないと、このようにあふれて、立ち止まることになってしまうのか。