orangeitems’s diary

40代ITエンジニアが毎日何か書くブログ

人を負かすことが競争の勝ち方では無くなった件

 

いろいろな会社での相談を聴いていると、人間関係に属する話は非常に多い。同僚の自分に対する当たりが強く、話をするだけで不快だ。同僚は仕事ができ上司に気に入られているのはいいが、それをいいことに、自分がどれぐらいできるかを事あるごとにアピールする。それがあたかも周りが無能のように聴こえ、雰囲気を悪くしているが本人が気づかない、など。

 

私が25年ほど前、新卒だったころで、かつ顧客に常駐していた仕事をしていたときのことを思い出してみる。私の世代は団塊ジュニア世代の末端ぐらいの位置でとにかく同級生の人数が多かった。だから競争が激しかった。しかもバブル崩壊と就職氷河期の入口がいっぺんに来たという、自分で言うのもなんだがお気の毒な世代である。

そのころの感覚で最もフィットするのが「あなたの代わりなんていくらでもいるんだから」という言葉だ。実際にいた。結構優秀な人が簡単に暗黒面に取り込まれアイドル状態だったものだから、優秀な「代わり」がいた。しかも薄給で。世の中デフレの入口だったもので、それが普通だった。給料が下がらないだけ感謝してよね、みたいなツンデレのツンしかない状態だったのがその頃だ。

そして、まだまだ筋肉質の「できるやつだけが生き残ればいい」みたいな世界観が強かったので、私はできるんだぞ、というアピールがないと正直生き残るのは大変だったと思う。IT業界はその後ITバブルに向かって、それでも人材が必要になっていったので、何が起きたかと言うと、負けた人が次の現場にまわされまわされ、フィットするまで永遠にまわされ続けるという遊戯。行きつく先は自社のオフィスで、自習本を渡され勉強し続けるというオチだ。でも、翌週には次の現場が待っている。

 

さて、意識を現代に戻そう。今は当時のように人が潤沢な時代ではない。過去のような競争はまるでない。人をそろえるだけで大変な時代だ。会社としては、人をそろえるだけで大変なので、お願いだから仲良くしてくれよと思っている。できる人も、今できない人もいるだろう。今できない人は努力してできる人に追いついてくれ。いわゆる支援的な態度であり、少なくとも昔のように、「代わりはいくらでも」とはいかないし、絶対にそうしない。人間であれば成長するだろう。誰しも研鑽し学んで成長しようという暗黙のルールがある。

その状況で「人を負かして競争を勝っていく」という、昔の少年誌のような態度を持って同僚の頭を自分の足で踏んづけていくような人は、むしろ有害性の方が強くなる。彼は仕事はできるが周りとの協調性に欠け、心理的安全性を脅かし、全体の生産性を低下させる。彼にチームの仕事は任せられないし、より限定的なポジションを作って納めるしかなくなる。そういう評価になる。

ポイントは、そういう、負けず嫌いな彼すらも排除しない会社の姿勢である。マネジメントは、有害性を感じつつも彼すら排除しない。その代わりにワークフローを工夫し、彼が同僚とできるだけタッチするポイントを減らす。彼自体は仕事はできるのだから、切り分けて自己完結できるようにしてあげると、変な係争は減る。

減る代わりに、負けず嫌いな彼は仕事ができる割に出世しないという変な状態になるので、いずれ「この会社は私が今後活躍できるフィールドに無い!よい会社だけれど!さようなら!」と旅立っていく。ここまでがマネジメントの仕事である。ふう。

 

それぞれの人のタレントを活かし全体のパフォーマンスを向上させることが現代のマネジメントにおける至上命題であるときに、社内で勝ち負けなんてしているのが非生産的なのだ。だから競争心を隠さないような人は、正直、出世するのはなかなか難しい。せめて、他人には関せず自分の道を行くのみ、ぐらいのキャラクターでいて欲しい。そう、評価なんて自分の知らないところで勝手にされるものであるから、他人を押しのけようとする姿勢は無駄、いや有害なのである。その他人すら自分の能力を拡張する協力者、ぐらいに考えられる人じゃないとこの世の中、渡っていけないよね、という感想を今は持っている。