orangeitems’s diary

40代ITエンジニアが毎日何か書くブログ

何が本当で何がウソかなんて、気持ちの問題

 

本業の仕事をしながら思うのは、表向きにする情報は「本当」候補であり、そして何も反論がないと「本当の本当」になってしまうということ。

でも、本当のことは別で、「誰が言えるかこんなこと、みたいな事柄」があって、それで頭をひねって「本当っぽいウソ」を考えて、それを「本当」にしちゃう、というワークフロー。

心の底では、いつでも正直に生きたい。だけど、全てを正直に明かしたら、きっといろんな人の感情をかき混ぜてしまうだろう。でも「ウソっぽいウソ」をつくとそれは、一発でバレてしまうからだめ。「本当の本当」になってしまうウソは、実はとても難しい。技術的には。全ての物事のうち、本当のことだけ言ってウソのところは言わない。結果として「本当っぽいウソ」の出来上がり、みたいなこと。

こういうことを「優しいウソ」と指摘に表現する人も過去にいたけど、自分には優しくない。本当は、正直に生きていたい。

なんとなく、世の中で上の方に行くためには、この、苦い味のする、「ウソ印の本当」を作れるかをどこかで試され、そしてそれができる人が優先される気がする。残念な話だが。

例え、本当だ、と思ったことしか言わない、って決めてもね。よくよく調べたら間違ってたということがある。その場合、本当はウソにもなる。信じている人から本当だからと言われたことが、本当じゃなかった場合、自分自身は本当と思わされているから、心の底からウソを言えちゃう。

そうやって考えると、世の中の本当って、実は、人によって作られ信じる人が多いもののことを言うんじゃないか、って思う。信じさせる力が強い人が偉い人。インフルエンサーやら社長さんやら芸能人やら有名人やら、「本当」を作っていける人、ということだね。彼らが本当そのものと言うより、クリエイティブに「表向きの本当」をアウトプットできる。

逆に、不祥事を起こしたりすると、本当と思う人が激減するので、その枠からこぼれ落ちちゃう。これが信頼やブランドの正体だろう。

信頼やブランド=本当、とイコールで結ぶのは、だからすこし短絡的・暴力的なんじゃないかと思っている。きっと、本当のことは別にある。でも、彼らは関わっている人たちを幸せにするために、本当をコントロールしている。ウソでも本当にするだけの腕力がある。腕力が無くなった人から退場していくという世界。

人の真実を暴いて大衆のサプライズに晒すことが、何だかSNS時代・デジタル時代のスポーツみたいになっている気がするが、これは、かなり心して、本当を語っていかないと、すぐ「ウソの谷」に突き落とされるということになるんだろう。だって、言い方次第で、事実の広がり方は真逆になるから。本当は一つなのに、ね。

ウソ、と、本当、というほど2つはくっきり分かれていなくて、「ウソみたいな本当」と、「本当みたいなウソ」は、きっと人々、ほとんど見分けがついていない。でも、世の中の表向きの本当は誰かが決めていて、人々はそれにぞろぞろと付いて行っているだけだ。世渡り上手、とは言うけど、飲み会に行くとかあいさつするとか、そういう簡単な話じゃなく、この、どう本当を作っていくか、という技量については、とてもとても、毎回面と向かう度に困惑させられる。困惑させられながら、前に進むしかない、という玉虫色の決着である。いつも。苦い味がする。