orangeitems’s diary

40代ITエンジニアが毎日何か書くブログ

あるがままブームはおかしい

 

周りの環境に同調せず、自分のやりたいことを貫いて生きる。いわゆる、あるがままに生きるべきという意見をよく見かける。この傾向は20世紀後半、だから30年くらい続く底堅いブームだと思う。日本独特の、空気を読む、という行動が誰にも求められる社会の中で、少数派に属するような人たちが生きにくいことが前提にあると思う。ここ最近はマイノリティーを虐げるような行動は避けよといろんなメディアも言うので、皮肉にも「少数派は大事にしなきゃ」という空気を生み出すことで、全員が空気を読めということになっている。社会はそれで折り合いを付けていきたいようだ。そうすると「少数派ばかりに気を使って大多数の人の権利はどうなるか」みたいな話もあったりして、社会の中でみんなが笑顔で生きるにはなかなかテクニックが必要だと思うわけだ。

一方、自分が少数派なのか多数派なのかはともかく、「それぞれの人があるがままに、自分らしく生きよ」という命題はなんとなく、すべての人に当てはまりそうで、かつ心地の良い言葉に思う。でも、実際そんなことをしたらどうなるか。あるがまま、が未熟な人ほど痛い目に遭うのがオチだ。こんな空気においては黙っておいたほうがいいな、とか、本当はこうしたいけど面倒くさいことに巻き込まれそうだ、などということを「知るか」と言って強行するわけだから、そうなる。そうなったとしても覚悟ができているという状態を「あるがまま」というわけだ。少しも寒くないわ、と意気がったってめちゃくちゃ寒い目に遭う可能性も高い。

そう、この「あるがまま」ブーム、人々においてはかなり危険な行動戦略なのだ。これは、あるがままに行動するなとはいっていない。

あるがまま、そのものを成長させないと、痛い目に遭うぞ。

ということ。あるがままの自分自身を成長させ、自分の素の言動、行動などを、すべて表に出したとしても、それが社会に素直に受け入れられ、統一感を持って行動できるということ。これってかなりハードルが高いことではないか。自分の能力・価値観・感情のようなものを高いレベルで安定させて出力できないと、前述の通り痛い目に遭う。

あるがままにするとしたって、譲れない部分と、まだ自信がなく表に出さない部分が混在しており、取捨選択しつつ日々、小出しにしながら自信を付け、だんだんとあるがままを出しても安心できるようになっていく。これが人間としての成長だと思う。若い人が無鉄砲にあるがままだと街で暴れまわっているのも、たいてい数十年経つと落ち着いた大人になっている。若い頃は何も知らなかった。そのとおりだ。

だから、メディア等で、あるがままに生きよというメッセージを受け取る場面は多いのだが、私は「慎重にな」と声をかけて回りたい。成長を待たずにあるがままにふるまい、革命家のようにして行動するも、社会から矢のような攻撃を受けて沈んでしまう人は多い。あるがまま、とはそういうことではない。もっと戦略的に少しづつ、自分の成長を促しながら時間とともに行っていくことが重要であり、感傷的に弾けるような表現はウソだ。

「不利益な」マイノリティーに対する社会の残酷さはすごく知っている。そうみなされないように、「利益のある」マイノリティーになるためには、あるがままの成長こそ重要である。自分の心は一つしかないのだから、大事にしてほしい。