orangeitems’s diary

クラウド専任の40代インフラエンジニアが書くブログ。新規事業マネージャー。20世紀末の就職氷河期スタート時にIT業界に文系未経験で入りこみそのまま生き残った人。1日2記事投稿しています(0:00、12:00)。

SNSの末期的風景

 

この前、知人とご飯を食べにいったんだけど、考えさせられる一件があった。

ご飯自体はとてもおいしかったし価格もリーズナブルだし、店構えも接客も良くて、とても良いお店だった。

考えさせられたのはその料理の盛り付けだ。

明らかに、SNSでの「映え」を意識している。食べることだけではなく、目立つ見た目にすることで写真にしたときのインパクトを強くし、それが拡散することで客を呼び込もうという戦略だと思う。

そう言えば、きらびやかな景色には、必ずスマホを持って自撮りしている人の姿をよく見かける。

料理の見た目や、景色などは、見て楽しむものじゃない。写真にして拡散するアイコンのような役割であり、もはや撮る人は見てないんじゃないかなと思う。

ディズニーランドやUSJでもそういった現象は顕著なようで、アトラクションを楽しむことそっちのけで、どうSNSにアップするかみたいなことが日々競われているらしい。

それって、どうなんだろう、「いいね」が欲しい。バズったあと自分が拡散されたい。

いわゆる拡散の力に、人々が踊らされているということなのか。

 

この状況を横から見ているときに、複雑な気持ちになることがある。せっかくそこにいるのに自分の目で見ないで、スマホのカメラが見ていて、その映像を一生懸命見ている人間の姿。

SNSという装置を使いたいという欲求が世界を覆っていて、そしてSNS自体はそんな投稿であふれてしまうようになった。もともとは、いろんな人々の気持ちが内在して、人間観察の場としては面白かった時期はあったが、今はいわば広告しかないような印象である。

こうなってくると、コミュニケーション、コネクション、といった意味合いはどんどん薄れてくる。いいねの数だけが価値だとすると、そのいいねを付けた人はどんな人なのか。知り合いになれるか。そんな尺度ではない。つながり、ではない。

つながりを生み出さないSNSなんて、意味があるのだろうか。

私としては、かなり今のSNSに冷めてしまった。あれは、ソーシャルでもなんでもない。大喜利大会を社会全体でやっているようなもの、である。

それに気づいてから、すぐTwitterの買収が起こり、そして今SNSがどうあるべきかが議論されている状況にある。それとともに、まさに人々が何を考えているか、について、一般人からはかなりわかりにくくなったように思う。本来のSNS的な機能を持つメディアは今、本命的なものが存在していない。

どうせ、また新しいものが出てくるでしょ、という意見も聴いたが残念ながらそれは見当たらない。だから、今、人によっては社会の見え方への解像度が下がってしまったと言う人も多いのではないか。

私は、とりあえず、目の前の会える人から話を聴くことに取り組んでいる。それは社会全体から見たら少数なのだけれど。でも、自分以外の人から話を聴くのは貴重なことだ。誰しも、自分の心の中だけは細かく見えていることだろう。でも、他人の心の中はわからず、むしろ記号のように扱っていると思う。あの人はあんな人。この人はこういう人。でも、それはほとんどが思い込みで、色んなことを思ったり悩んだりしていて、そして言わないだけだ。

むしろ、SNSのような大衆と雑然とつながる流れから、一部の知人とネットを使ってゆるくつながるような流れへ、社会が進んでいる気がしている。親友などという重い関係ではなく、ただただお互い知り合っているという関係を、たくさんのチャネルで作っていく。今はネットがあるので、距離や時間を簡単に超えられる。

ここ最近、このような考え方の元、いろんな人と出会い、話していてとても興味深く感じている。そのゆるいつながり、継続性や深さみたいなことを意識する必要はない。日々日々、誠実さ、品格のようなものを大事にして、丁寧にお付き合いしていれば、負担にもならない。

SNSの末期的風景を見ながら、ネットを使った本当のソーシャルの価値が新しく定義され始めている気がしている。