orangeitems’s diary

40代ITエンジニアが毎日何か書くブログ

人は解決して欲しいわけじゃなくて

 

オフィスと家とサードプレイスと、いろんな社会を最近は渡り歩いて思い知らされていることがある。

ビジネスにおけるコミュニケーションとは、結論を先に要求される。報告するときに経緯を話そうものなら、「それで、君はどうしたいの?」と告げられる。まず、3行で話したいことの結論を話すこと。ビジネスはだいたいこれでOKだ。3行すら出てこないのならまだ報告するときではない。私はこんなことで困っているから解決してほしいです、そうすれでもいい。なんでもいいからまず、頭に結論を持ってくることがビジネスで最も重要なことだと思う。

仕事ばっかりしていると、そんな会話になれてしまう。「今日こんなことがあったんだけどさ・・」と話しかけられ、で、それはつまりどういう話なの?、こういうこと?、とビジネス能力全開でサマリー機能を発揮すると、「そう、そうなんだけど・・」と相手は不満げである。

テレビ番組を見ていると、最近の出演者はビジネス会話能力がすこぶる高い。たくさんのひな壇タレントの中で、自分に与えられた話せる時間の短さを理解しているからだ。ものの数秒で内容を理解しそして鋭い反応を返す。ちょっともたつくようだと、誰かに発言権を取られてしまうと同時に司会者は話を振ってくれないという厳しい世界だ。

最近は若手タレントであっても、その辺りの俊敏性がすごい。TikTokも数秒の動画で物事を伝える世界だから、結局は延長線だと思う。音楽だって最近はサビでいきなり始まりインパクトを残さなきゃいけなかったり、曲自体も短くなっていたり。

さて、皆がビジネスに毒されていく中で、ある日気づいた。この悩みを素早く報告し、そのソリューションを素早く開発し、そして実行して解決するというプロセスが、この世の中では万能とされているのだが、人々はこれを本当に求めているのか、と。

まあ、悩みはあるだろう、誰にでも。で、この悩みをビジネスライクに誰かに解決してほしいのだろうかという問いについて、自分自身に当てはめてみると案外「そんなん自分で解決するわ」に帰結するような気がするのである。だって、自分の悩みを人に投げて、そんで解決するとしてそれは解決なのかと。どうせ自分で悩まないといけないし自分で解決しなきゃいけない。

じゃあ、自分で解決する気なのに、なぜ誰かに打ち明けるのだろうか。ここにポイントがある。自分の悩みを誰かにきいてもらい、そして誰かがそれを共有する。ああ、あなたはこんな悩みがあるんですね。それは困りましたね。

ここで止める。何にもソリューションは提示しないし、悩みの吐露にも結論を求めない。そもそも何に悩んでいるのかも明確にする必要もなく、とにかく悩みがあるんだ、という情報とそれに付随する情報を、手がかりがなくとも箇条書きに話していく。

実はここまでで、結構な価値があることに気がつく。私の頭に悩みがあって、それを誰かに伝えるときには言語化が絡む。言葉にする。そして伝わったか確認する。このやりとりで随分情報は整理され心は落ち着く効果がある。とにかく悩みの正体がわかれば、次に何かやってみようという気に人間はなるようである。

そもそも悩みを共有されるほうも、個人の悩みに対しては解決する手段を持ち合わせていない。情報が足りなすぎるし違う人間なので、何をすべきかなんて他者が伝えるのもおこがましい。せめて、自分なら・・こうかな・・わからないけど・・、くらいが関の山である。

この状況を踏まえると、人はもしかしたら、解決してほしくて悩みを話すわけじゃない、話を聴いてくれてそして理解してくれて共有してくれる。そしてその悩みをいじらない。ただただ受け止めてくれるという人を求めているんじゃないかという仮説を持っている。

この辺りに、仕事onlyおじさんが、定年後、家庭や地域に戻って、不適応を起こす原因も感じている。すべてをビジネスコミュニケーションで、ソリューションを提供し信頼を得ようとするが、誰もそんなものは求めていないのである。ソリューションの押し売り状態となり、あの人は私の話を聴いてはくれないし、その割に何でも結論を押し付けようとする。ひどい、みたいなね。

会社の1 on 1ミーティングがうまくいかないのも、この仮説が関係ありそうである。部下が上司に、悩みを共有しようとしたら、途端に上司がソリューションを言ってくる。うざい、なんであなたにそれを言わなきゃいけなくて、それであなたがそれを解決しようとするんだい、と。

なかなか、深い話である。