orangeitems’s diary

クラウド専任の40代インフラエンジニアが書くブログ。新規事業マネージャー。20世紀末の就職氷河期スタート時にIT業界に文系未経験で入りこみそのまま生き残った人。

多様性の肯定は、少数派の攻撃性を高めることじゃない

 

最近、ネットを見てて多いなと思うのが、明らかにマイノリティーというか、王道を外れている意見を、堂々と言う人。

いや~、基本的に多数決の世の中ってのは、全く変わってないんじゃないかな・・。多様性やSDGsみたいな流行のせいで、なんだか少数派を認めろ!みたいなムーブメントが目立ちすぎな気がしている。

そもそもの目的は、少数な中にも有用な意見もあり、多数な中にも非効率な意見がある。それぞれを認め合い可能性を追求していこう、みたいなお話なように思った。

それが、「なぜ少数派を認めないのだ!!」みたいなある意味威圧的な、暴力的な側面を持ってしまっているように思う。それが少数なのは、多数に支持されないからであり、劣った意見であるかもしれないのに。

少数派だからといって頭ごなしに内容も聞かず、捨て置くような手法は今っぽくないのではあるが、一旦話を聴いてみても、そりゃ少数だわ、劣ってるわ、みたいな話も多いのである。

マイノリティーであるとして、それはそれで自覚し思いを整理し、機会があれば淡々と語り、味方を増やしていくのが大事なんじゃないか、と思う。それをいきなり公衆の面前で、「少数派を認めろー!」みたいな活動をしたって、多数派からやり込まれるのがオチである。少数派は多数派と戦うのではなく、理解者を増やすべく、説明に終始するのがいいんじゃないかなと私は思う。

マイノリティーが集まって、革命を起こすべく、狭い価値観の寄せ集まりの中で先鋭化し、攻撃性が高まっていくことを、多様性やSDGsがかえって推し進めていくことの怖さを言っている。そのとき、少数派は多数派の意見を聴く耳を持てるのかと言う話だ。そのとき、弾圧だ!、多数派が少数派を押しつぶそうとしている!、みたいな反応をする場合も多く、興醒めしてしまう。

日本も50年単位で振り返ってみると、たばこを公共の場で吸うのも自由だったし、パワハラセクハラも普通に行われていた国だった。空き缶を投げ捨てたり、ゴミを投棄したり、言葉の暴力など、たくさんの悪い慣習があり、それが多数派だった時代も、ある。

それが変わってきたのは、やはり少数派だった人たちが、これはいけない、と地道に活動してきた結果、少数派が多数派に代わり、時代は大きく変わった。

だから、多数が絶対でもないし、少数はずっと少数ということでもない。いいものは採用され、少数がいずれ多数になることもあるしその逆もある。

であっても「少数を、多数派は認めなさい!」というロジックは無理がある。そのビックリマークが余計なのである。謙虚であってほしい。厚顔無恥にならないでほしい。少数意見にも耳を貸すことが社会運動になっているくらいだから、チャンスなのだ。少数であってもいいのが、「多数がおかしい!」になってはいけない。最近、主張が、随分おかしいことを言っているのを数多く見ている。

私自身もマイノリティーであることを認識することも多いけど、だからといってマジョリティーをオセロのようにひっくり返そうとは思ってない。両方立つ権利はあり、こっちはこっち、あっちはあっち、両方、尊重する姿勢こそが大事だと思っている。