学歴社会は終わらない

 

私が新卒・・二十五年前のころから、学歴社会は実力社会へって言われたものだよ。でも現実はどうか。学歴重視の傾向は終わっていない。終わっていないが、人材が不足気味なので贅沢も言っていられない。高学歴の人数は限られているからだ。チャンスは裾野に広がり、学歴はいいに越したことはないけど、まあそこそこでもいいよね、大学を卒業していればいいよね、みたいな世界観を日々見せられている。

そもそもなぜ人は学歴にこだわるのか、現場サイドから考えてみてほしい。答えは実に簡単である。

「学歴が高くて仕事ができる人が、学歴ブランドを堅くする」

からである。もし仕事ができない例が頻発したら、さすがに管理側も考えるというものだ。この長い歴史の中でブランドを保つだけの結果を、高学歴者が残してきたというのが現実だ。

その上で、学歴の高い人は、高いレベルの仕事を得られやすいから、再現性があるということだ。学歴が高くない人の中にも高いレベルの仕事ができる人はいる。しかしサンプルが少ない。学歴が低い人も仕事はできるよね、と言えるほどの事例が得られない。学歴が低くてもあの人は仕事ができるよね、という例外事象になってしまうのだ。

もっと質の悪い話がある。

「学歴の高い本人は、学歴に全くこだわらず前面に出さず、むしろ隠している」

ことである。私の時代から、学歴ブランドをかざして人をマウントすることは恥とされた。それより実力で勝負しなさい、という文化が大勢だった。

だからこう言うのだ。「学歴社会は社会衰退の原因だ。本当に実力がある人より学歴がある人が優先される。」と。しかし、そういうことを言っている本人自体が学歴がある。心の底では思っている。あの大学受験の関門を優秀な成績でくぐった人の方が仕事ができて当たり前だ。だって自分はそうだから、と。

学歴の高い人がより難度の高い仕事を得るチャンスを得られやすく、そして成功しやすく、その上で評価される世の中だとしたら、結局、新しい社員を選ぶのも高学歴者に偏る。人事採用の権限は会社の命運を握る。そのとき、高学歴者は、学歴にこだわらない選考を本当にできるのだろうか。自分の成功体験を捨てて、社会の表層で建前のように言っている、「誰にでもチャンスを平等に」という言葉を真に受けるのだろうか。そうは思えない。

もちろん、冒頭で言った通りこのロジックでは限界がある。高学歴者の供給には限界がある。少子化にて若手の人口が先細りすることが確実な世の中で、高学歴信仰だけしていたら人材不足まっしぐらだ。就職氷河期世代は人の数も多かったので機能していたが、最近はそもそも数がいない。学歴偏向を打破しなければいけないのは、学歴社会が機能しないのではなく、額面通りやると、候補者がいなくなるから、という打算的な話なのである。

だから、人気のある一部企業においては学歴偏向はきっと終わらない。候補者を確保できるからだ。一方で一般的な企業においてはだんだんと学歴偏重を超えた選び方をしていかないと数をそろえられなくなる。そのときにやっと、それではどうポテンシャルを測るか、みたいな話になると思う。

この話、掘っても掘っても打算的になる。机上の空論で、学歴社会は悪いと吠えたところで、何の意味もない。