orangeitems’s diary

40代ITエンジニアが毎日何か書くブログ

無視できない宗教の存在、社会的欲求、そしてコミュニティー論

 

私は無宗教、だと思っている。

思っているけど、初詣や厄除けにも行くし、クリスマスも身の回りにある。

無関係ではいられない。

もっと思い返せば、高校・大学とキリスト教系の学校に通っていた。実家には仏壇があり近所のお坊さんがお経を読みに来ていた。

大学のころ、同級生にとある宗教の信者がいたが、彼はかなり賢く聡明な方で、周りに宗教を広げるようなこともせず至って紳士だった。ただ、彼はその宗教の教えや活動については肯定的に表現していた。世の中の役に立つものだと思うし、世間が言うほど悪くはないよ、と教えてくれた。

大学の時は、新興宗教の活動が過激になり社会が大騒ぎになった頃でもあった。社会とのあつれきがあった。かなり締め付けも厳しくなり、メディアが宗教を取り上げるのはタブーとなった。非科学的とされる題材についてテレビが面白おかしく取り上げて、詐欺にまで発展することの危惧により、広く目にすることはなくなった。

そこから20年あまり、私のような無宗教者にとっては宗教は遠いものになったし、社会との関係も落ち着いたように、見えた。

しかし。

具体的には言わないが、今、宗教がまた社会に問題を問いかけている。

肯定するか否定するかではなく、宗教というものは報道されなくてもそこにあり、そして文化に大きな影響を与えている。宗教の存在感を今一度知らされた気分だ。

 

ここ最近思っていることに、人は集まらざるを得ないということ。何かの社会に属しないと心の安定が崩れること。したがってコミュニティー論は社会、もしくは世界にとって誰にとっても議題となる。

コミュニティーを形成するときに、拠り所としていたのは家族、その次に会社、最後に地域だと思う。しかし家族は核家族どころか結婚制度すら揺らいでいる。家族を揺るがすのは転勤制度が諸悪の根源だと最近はいろんな会社で希望しない転勤を廃止し始めたが、多分もう手遅れだ。会社はどんどん、スキルを中心とした、仕事単位の人間関係を模索し始めていて、一生面倒見るメンバーシップ的な雇用を止め始めている。入社から定年まで勤めるのがどんどんレアケースになってきている。そしてここにきてリモートワークも浸透し、ますますコミュニティーとしての会社の機能が揺らいでいる。そして定年後も有り余る時間がある。

どうやって社会に属するのかが、ますます難しくなっている。

難しく考えるなよ、という人に問いたい。いよいよ対応が難しくなってからお手上げになり、社会に疎外感をおぼえることはないのか、と。難しくならないうちに考えるべきではないか。まだ余裕のある今のうちじゃないか、と。

 

さきほど選挙に行って帰ってきたのだが、その最中に新興宗教の勧誘活動をみた。10人弱くらいで、二手に分かれて勧誘活動をしていた。

宗教は2つの側面があると思う。1つは宗教の教えそのもの。もう1つは宗教活動によって生み出されるコミュニティーだ。コミュニティーの目的は宗教を広め、仲間を増やし、共感する人をさらに集めることにある。それが宗教法人の成長と結びつく。そこまでは自然だが、一方、属する信者自身の目的は別にあって、このコミュニティーに属すること自体が、心の安定をもたらすという側面だ。

宗教の中身はともかく、その活動者の表情はどこか楽しそうだ。

コミュニティー自体の運営に関して、案外、集まるだけでは継続できないというのは興味深い。集まる、話す、解散する。これを繰り返すと飽きが来る。何のために集まっているのかという感想を持つ人が現れる。コミュニティー自体には、コミュニケーションが苦手な人もいるので、陽と陰みたいなことが起こるのだ。学校のクラスですらそうだろう。しかし、「目的性」が現れるとコミュニケーションではなく、その目的を果たすことが中心となるため、コミュニケーションが苦手な人でも参加できる。例えば、公園の愛護会なら、寡黙な方でも掃除に参加していれば、仲間意識が芽生えるというものである。

宗教においては、その宗教活動自体が目的性を持っており、かつどれだけ信者を集められたかがステータスとなることが多い。したがってコミュニティーに属するということ自体が価値となりつつ、目的を、精神的にも肉体的にも提供してくれる宗教の仕組みは、人間の社会的欲求と共にある。

だからこそ、暴走する。その仕組みまで踏み込むつもりはない。

 

私は、宗教を文化の一つと判断しつつ、宗教に頼らない形でコミュニティーを形成し、それを維持していく仕組み自体に興味を持っている。宗教のような強い目的性を必要としなくても、維持できるのではないか。その大きな存在と対峙しながら、自分がよりよいと思う活動を示していきたい。