なぜ、私はコミュニティーを立ち上げたのか

 

さて、自前コミュニティー「オレツナ」を急に立ち上げて忙しくなったけれど、このブログは平常運転で続けていきたい。むしろ、コミュニティーによって色々と刺激を受け、このブログにフィードバックするようなやり方でありたい(コミュニティーの情報をここで話すことはもちろんしない)。

コミュニティーとはメンバーシップそのものだと思う。コミュニティーに脅威をもたらす人でなければ誰でも参加できるし、参加者となれる。参加することで、他人が自分を知り、そして自分が他人を知れる。

このメンバーシップ自体が、特にこのコロナ禍でメタメタに傷ついた。

大学の例は顕著だ。授業を受けられることが大学の機能ではない。学生たちが何らかのコミュニティーに所属し活動することはこれまで普通に行われてきた。しかし、Web会議が授業のインフラとなり物理的に集って活動できない時間帯が長く続いたため、コミュニティーが形成されなかった。そのため多くの大学生が孤独感にさいなまれたり、休学したりしたというからひどい。

会社も、テレワーク・リモートワークが導入され、就業後のイベントも消え去り、そして社会はメンバーシップ型からジョブ型へ、というトピックが話題となった。すでにジョブ型を明文化し取り入れている会社もある。会社のメンバーであることより、会社が必要なジョブに対して人を当てはめて行くやり方である。

コロナ禍は実はきっかけに過ぎず、どうにもメンバーシップ型を軽視する方向に流れているんじゃないか、と思うときがある。そして、ここ最近確信にいたった。

人は、何らかのメンバーシップに支えられるべきで、昔は学校や会社がそれを担っていた。しかし、もうそれらは能動的にメンバーシップの機能を果たそうとはしていないのではないかと言う疑念だ。

会社なんて、転勤・転職すれば人間関係ごと変わってしまう。また、正規職員ならまだメンバーシップの名残があるが、非正規、派遣やフリーランスなどは強く感じるだろう。このメンバーシップの外側にいるのだと。それは、私も三十代半ばまでは他社で常駐SEとして長く働いたのでその感覚はよくわかる。「社員だけでミーティングしまーす」のたびに心がチクチクしたものであった。

そして、定年もある。会社の決まりに書いてあるのだ。この年になったらメンバーシップ終了だと。でも人生は続く。そこまで会社オンリーでメンバーシップの中だけにいた人は途方にくれるのだろう。私も最近、住宅ローンの組み直しみたいなときにこれは気がついた。

社会の基盤自体が、どうもメンバーシップの提供を軽んじているような気がしている。いわゆる自己責任。コミュニティーに所属できない人のことなど考えない。

また、家族も、メンバーシップの権化のような存在だが、これも永遠の存在とも言えない。家族であるから永久のメンバーシップを有しているというのは少しロマンティスト過ぎる。自分がそう思っていたって、家族がそう思っているとは限らないのである。だから、過度に家族がいるから、と思うのもリスクはあると思う。

社会で正常な心を保つためには、何らかのコミュニティーに属し、社会に受容されている感覚は大事だと思うがそのための器、学校や会社、家族のあり方が大きく激変している。何も考えず制度に身を任せ、生産性ばかりを追い求めると身の回りに誰もいないことが起こり得る。そして起こっている。

デジタルコミュニティーにも触れておきたいけれど、現在は、「オーディエンス(観衆)とステージパフォーマー」の関係が多すぎる。一部のインフルエンサーが目立ちすぎ、ほとんどの人はオーディエンスになっている。

絵で言えばこんな感じである。

 

 

こんなに人がいるのに、隣の人とはコミュニケーションすることがないのである。

このあたりを変えたくてコミュニティーを立ち上げたという次第である。