日本に電話がやってきたのはいつだかご存知ですか?。
10月23日は、「電信電話記念日」。1869年(明治2年)の10月23日に、東京~横浜間の電信線架設工事に着手したことにちなむ記念日だ。
日本の電話の発端から数えて150年。ケータイやスマホでのコミュニケーションが当たり前になった現在、電話がどのように身近なものへと変わっていったのか? 初期の電話料金は? 黒電話のデザインの謎……、意外と知らない電話にまつわる歴史を振り返ってみよう。
2021年から遡って152年前。
そう、リモートの歴史って案外長いんです。この世の中で生きている人は全員が、電話を当たり前だと思っている人たちです。
電話の初期段階では、すぐには相手にかからなかったそうですね。
①電話をかける
②オペレーターが出る
③オペレーターに電話番号を伝える
④オペレーターが電話番号に手動でつなげる
⑤やっと相手につながる
このオペレーターを交換手、と呼んだそうですが、当時は海外から入って来た新しい職業とのことで人気が高かったそうです。
今はもう、交換機ができて完全自動化されたので、無くなってしまった職業ですが、仕事なんてほんと未来永劫続くことなんてないなと思います。
ちなみに記事の途中に出てくる黒電話。私が幼少の頃に住んでいた家にも長年あった記憶があります。確かに、停電しても電話が使えたりしました。なんで停電しているのに、電話の「ツー」って音はなるんだろ、そもそもコンセントないし。そんなことを小学生の時に思ったことはありました。今の固定電話はコンセントが付いてますから確かに停電したら使えないですね今は。その分、携帯電話が普及し、災害に強いデバイスに昇格しました。
昔から、デジタルなど無くても電話は存在していて、遠く離れた同士でもコミュニケーションを行うことはできました。そこからデジタルが1995年前後のインターネットの爆発的な普及で、人間のコミュニケーションスタイルは大きく大きく変わりました。
①電話
②Web会議
③チャット(メッセージング)
④電子メール
⑤SNS
おそらくこの範疇のどれかにコミュニケーションは収まると思います。
みんな長い時間、手にスマホを持って、何がしかのコミュニケーションを熱心に行っています。
こんなにこんなに通信しあっているのですから、それはもう共通理解は進んだのだろうかと言うと、実際に進んだことは以下のことだと思います。
・相手がわかっていないということを強烈にわかることができる
わからないほうが良かったことなんていくらでもあって、しかしわかりたいというのが人の性。そして、わかるために自分からいろいろ発信しますし、相手も発信してくれます。そしてその情報は、見られることを前提とするために、虚飾がどうしても入ります。お互いに虚飾を見せ合い、それを真実として受け入れていきます。しかし虚飾は虚飾なので、情報を出せば出すほどいつかどこかで馬脚を現し、幻滅させてしまいます。
人間は、自分にとって都合のいいように考える生き物なので、実は情報は少ないほうがいいと言います。誰かを洗脳するときに、オンラインサロンなど限定的な社会に閉じ込め、そして外界の情報は汚れている、一切取るなと言いいます。そして都合のいい情報だけを伝え、染めていきます。そんな手法は有名です。
だから、この情報が多すぎるということは相手の状況を裸にしやすいので、幻滅のタイミングが来やすいということです。
一方で情報が豊富だと、自分の価値観と合っている人を選ぶことができますから、たくさんの人から誰かを選びフォローします。そうやって、自分を傷つけない人を選びデジタル上で社会を作っていくことを、皆無意識にやっています。
これを突き詰めると、日本はどちらかと言えば同じ意見を皆が持ち、同じ感覚を持ち会う単一民族だ、というような暗黙的な共通意識を破壊します。
テレビを中心とし国民の価値観を作っていくという、旧来の世論形成はもはや、壊れかけていると感じます。私がニュースを見ていても、かなり白々しい世論形成をはかろうとするのが見え見えで、まともに信じていないからです。
特に最近多いのがこの手法です。
・インタビューをして、テレビ局の言いたいことをしゃべったひとを取り上げ、さも「みんながこう言っている」という絵を作る。
・SNSで「みんながこう言っている」という絵を作る(一部の意見を切り取り、さも誰もが言っている、と言う)。
ただ、冒頭の通り、情報過多の時代なので、いろんな意見が存在しているのはバレバレなのです。そもそもテレビを見ない人も若い世代中心に広がっています。
そして、皆、互いがいろんな意見を持っていて、そして互いにわかりあうことはないのだ、と気づき始めています。
そうなると、「普通では考えられないでしょ」と言うようなことが平気で起こってしまうのです。
これを非難する声もたくさんSNSに上がっていますが、これらはきっと、彼らには届きません。そのためにはミュート・フォロー、なんでもありです。
もともと、分かり合えないもの同士は、そもそも会話をしません。議論になりません。無視するだけです。
最近「頭の悪い人は」「バカは」という言い方を他人にしてカテゴライズする表現も流行していますが、これも同じことですよ。拒絶です。岸の向こうでは、私もあなたも、頭の固い人、アホ、なんて言われているかもしれません。
皮肉ですよね、コミュニケーションの手段は飛躍的に高まったのに、結局は分断が起きやすい状況を作ることになってしまった。多様性、多様性、言っている割には、自分と違う人々を遮断することで人々が心地よさを感じるようになってしまっている。
コミュニケーションツールを磨いても、コミュニケーションできるわけではないのだよ、ということはおぼえておいたほうがいい概念だと思います。特に現代は。