orangeitems’s diary

クラウドで働くインフラエンジニアの日々の感想です(ほぼ毎日更新)。

責任を痛感⇒辞めない、なぜなのか

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昔・・と言っても二十年前くらいまでは、責任を取るというのは辞めるというのと同義だったと思う。

あのころは総理大臣がどんどん変わった。くるくるくるくる変わった。

そして現在、責任は痛感するものであって、辞めることとは全く結びつかなくなった。

そして国民も、これを許容しているように思う。

責任とはむしろ、困難な状況でもあきらめず、問題を二度と起こさないために奮闘すること、という概念にすり替わってしまった。

今の政権が持っているのは、問題は起こすけれど、常に新しい問題だからだと思う。不思議なことに同種の事件は二度起こしていない。

それぞれの問題は深刻なのに、それぞれユニークな問題なので、責任を痛感砲が毎回炸裂するのである。

 

このような世の中において、国民レベルにおいてもきっと、責任に対する行動は昔と変わっているはずである。

とにかく、辞めない。そこにいる。

だいたい辞めている人は、自分から辞めるのではなく、周りから引きずり降ろされている。

だから、今一番大事なこと。自分の身の回りを大切にすること。

自分がそのポジションでいることで、身の回りの人を幸せにすること。

その人の幸せは、自分がこのポジションにいることで成り立っているという事実の積み重ね。依存が必要。

もし、何か問題が起きても、全力で対処することを宣言。

責任を全うすると言う姿勢。問題から逃げないという姿勢。謙虚な姿勢。

そうすれば周りが助けてくれる。周りが引きずりおろさない限り、何が起きても自分の身は守られる。

もちろん、同種の問題を何度も発生させると、さすがに周りも守り切れない。

したがって、責任を痛感した自分がやりきることは、周りに、必ず同種の問題を引き起こすなと強い姿勢で臨むこと。

こういうトリックが、現在の、モダンな責任論には渦巻いていると思う。

 

この、簡単に止めない責任論。昔に無かったのは、昔は代わりの人がいくらでもいたからだと思う。二十年前の職場は戦場だった。何か重大なミスをしようものなら、その人はすぐにいなくなった。職場に生き残るためにノーミスの仕事を貫いた。気づくとはじめに職場に入ったときに周りにいた人はみんないなくなっていた。生き残った人がリーダーになった。

今は無理だと思う。代わりの人がいない。辞められたら困るとも思っている。代わりをやろうという気概のある人も減ったと思う。

 

times.abema.tv

週明け解禁される企業の新卒採用面接。将来は課長や部長など、いわゆる管理職を目指すのかと思いきや、近年は若手の出世に対する意欲の低さがクローズアップされるようになっている。

 

リーダー職は面倒だ。たくさんの人に気を遣わなければいけない。自分の責任は適度にしたい。その線引きの中でスキルアップしたい。それは認めてほしい。

そんな風景が見透けている。

今は、責任を痛感しても辞められないから、という文脈であるのかもしれない。

こういった出世したくない人に共通なのは、無制限の労働を嫌うところ。自分の役割をこうと決めたら、その役割を拡張しようとしない。これが、責任を取りたがらない人々の共通項だと思う。

だから、「責任を痛感」という言葉が、若者に効くのだと思う。

私は、無制限の行動を誓う、線引きせず問題が解決するまで逃げない。

きっとこの宣言は、英雄的に響くのだ。

 

問題を何度も起こすのに、なぜか辞めない。

責任は自分にあると公言する割に、その立場に居続ける。

責任を果たす能力が自分にないとは絶対に言わない。それは二度目に同種の事件を起こしたらそう言わざるを得ない。だから、再発防止は徹底する。

そして周りを大切にし、依存させる。

こういった手法で生き残っている人が周りにいないだろうか。

現在の責任論は、過去と様変わりしてしまったことは主張しておきたい。