orangeitems’s diary

クラウドで働くインフラエンジニアの日々の感想です(ほぼ毎日更新)。

飲み会が苦手、だけど

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飲み会について

飲み会が苦手です。

何が苦手かというと、複数の人が話をしているときに入っていくのが苦手なんです。瞬間的にたくさんの人に話をしなければいけないって、緊張しませんか?。

一対一で話すのは好きです。でも飲み会で一対一で話をしようとすると、卓を囲んで並んでいるのに全体から浮いてしまいますよね。

全体に向かって話ができるいわゆる落語家や漫才師のようなコミュニケーション手法が向いている場面なので、そのような場面に慣れている人や好きな人には飲み会はたまらなく楽しい場でしょうね。

そもそも飲み会が苦手だと思ったのはもう二十数年前の学生のころからで、飲み会に参加すれどもすれども、楽しくない。楽しくないからと言って出席しないと仲間外れのような状態になると言う経験をしました。昔の方がその傾向は強めだったと思われます。

だいたい飲み会で集まる人たちって、そんなに相手のことを知らないことが多く、じゃあ仲良くなるためにその人の考え方や特性をつかむために話をしようとすると、内容の浅い話でわーわー言うことに廻りが終始するのでとりあえず座っているしかなく、でもわーわー言っている人の話も全然面白くない。そもそも嗜好としては笑い話を聴くことに興味が無く、相手の考え方やこだわりを知る方が楽しい。でもそこに行きつくことは無くただ騒いでると言う風にしか見えませんでした。

人と人って、分かり合うことによって関係を深める、と思っていたこともあり、分かり合うことより「笑う」「発散する」「わいわいする」ということを大事にする飲み会って本当に空虚だな、と思っていたことを思い出します。

 

今考えると

多分に人って、そんなに自分の内面を話したり考えを披露したりすることって私が思っているほど好んでないのではないかと言う仮説を最近持っています。私はこういったブログを毎日書けるほど、自分の考えを言語化するのに苦ではないので若いころからズレていたのだと思われます。好まないから、あの飲み会のようなコミュニケーションの意義があるんだろうと思われます。自分の内面はいわゆる個人情報のようなもので、むやみに廻りに明かすものではない。とても繊細な秘密情報だ。だから人と親しくなる時には第一段階としては「分かり合う」ではなく「探り合う」んだと思われます。どんな人かは遠くからゆっくりじっくり見定めて、少しづつ近づいていくのです。決して、いきなり懐に飛び込んで膝を突き合わせてはいけない。

特に若いころはこれがわからず、飲み会での周りの人物が設置する壁のようなものにおののき、ただただひたすらに飲み会や飲み会を好む人を否定したり拒否したりしました。

それでも飲み会のような宴のような世界は日本古来からあったものだし、社会人になっても度々開催されるので、その意味について深く悩んできました。もう行くたびに疲れてしまうのですが、行かないわけにもいかない、それが飲み会でした。

ここ最近、前段の仮説のような、ああ案外人は見せたくないんだ、ということが理解できてからはちょっと捉え方もマイルドになってきています。

登場人物はもう見せられないんだと。ただただ、その場にいて言葉を交わし、笑い合うという共同体験をするだけで、それをしないときよりは絆のようなものが得られるんだ、ということです。

でもそれって、自分の内面をさらけ出さず、何らかの信頼貯金のようなものを得られているとすれば、それはすごいことであり発明ではないですか?。だって自分の何も相手に見せていないのに、信頼されるってどういうことだろう、と。でも事実、何もせず何も見せず、ただただその場にいて話を合わせるだけで、ビジネスがうまく行ったりすることが度々あるんです。

変な社会だ、と思いながらそれも現実なので、受け入れるのが吉だと思っています。

 

好き嫌いと要不要

なぜこんな話をしているかと言うと、下記の記事を読んだからですが。

 

headlines.yahoo.co.jp

蛭子はプライベートで人と接することを嫌い、飲み会や打ち上げにも可能な限り行かない。昨年末、忘年会などの飲み会に行きたくない若者たちのトレンドになった“#忘年会スルー”をはるか昔から実践していた。

「仕方なく参加する時は、ずっと隅っこのほうに立って、1人でビールを飲んだフリをする。時が経つのを、ただただ待っています。忘年会などの飲み会はなくなってくれると助かりますね」

 

私は蛭子さんの生まれた場所で幼少を過ごした田舎者なのでわかるんです。田舎のコミュニケーションは、都会が育てた飲み会文化と全く違うんです。町中の人の名前を知っているしどの家の誰がどこの学校に行ったとか成績がいいとか悪いとか全部わかっていましたから。そんな村社会においては相手の人となりがわかることが前提だったし、外から来る人は異分子でしたから「村八分」という言葉が成り立ちました。

しかし都会では人が入れ代わり立ち代わりで記号のようなものですから、内面をさらすことより、共同体験を行ったことの方が価値があるのです。だから「飲み会が嫌い」というのは都会の否定でもあります。都会に住んでいる限りは私は合わせるしかないかなと諦めています。

最近のSNSの発達のおかげで、それでも他人が何を考えているかを学ぶことができるようになりました。たくさんのつぶやきを見ると、自分が考えていないようなことをみなが考えていたり、思ったより何かにおびえていたり怒っていたりと、飲み会では見せない心の動きをしていて興味深いです。

飲み会なんて最大公約数的な所業であり、行っていることそのものはうまい物を食べて騒いでいるだけですから、それ以上は何もありません。でも得られるものもありますので、特に「飲み会なんて意味がない」と思っている人は、損をしないように気を付けた方がいいと思います。飲み会が苦手な人間としての主張です。