orangeitems’s diary

40代ITエンジニアが毎日何か書くブログ

ヤバい上司を引いた時のメンタル

 

会社に入って「ヤバい上司」を引いたことは、過去何度かあった。

ヤバい上司とは、情報処理が自分よりうまくない、指示が的確ではない、問題をわざと起こす、色々なパターンはあれど起こりえる。私にも何人かの記憶がある。

基本的には、その上司は能力が低い。そして自分の能力は高い。比較的に。もし上司の能力が低くて自分の能力も低ければ、それは相手を批判する権利はないと思う。いい上司につきたいが自分の能力が低いんだったら、そりゃ自分で勉強するしかないよね。そして上司の能力を超えたら次の段階に進めばいい。

相手の能力が自分より低いんだからやることは一つだろう。主導権を奪うのである。権力は相手の方があるからそれは尊重すればいい。毎回お伺いを立てればいい。こうします、良いですか?。それは上司を倒すものではなく、上司にとって都合のいい話を持っていけばいい。ヤバい上司の信頼を勝ち取るのだ。この部下にまかせておけば、上司の顔が経つ。上司の手柄にできる。上司は結果さえ良ければ何でもいいはずなので、その前提を元に主導権を切り崩すのである。

つまりは、自分自身の能力を高めないと、ヤバい上司は切り崩せない。自分にめいっぱい依存させることが第一段階の目標となる。そうすれば、現場は、メンバーは上司より、この人を向いて仕事すればうまくいくんだということが刷り込まれる。上司を立てつつ主導権を取る。もし上司の方向性と違う、と思っても第一段階においては、ぐっとこらえておいたほうがいい。何か反乱分子的なものをかぎ取られると後々やりにくくなる。上司のお陰で私がいますという態度を表に出しつつ、言動に忍ばせつつ、裏では主導権を取るために地道に自分流を現場に浸透させる。

さて、第二段階である。第一段階が完璧に仕上がっている前提で、現場に問題が発生したとする。問題の種類は何でもいい。上司は全ての問題に責任を負っているはずである。

その時に、明らかにこうすればいいという答えが自分の中にあるとして、それと違うことをヤバい上司が主張し始めたとする。

ここで、わざと放っておくのである。反対するでもなく、ただただ従ってみる。そしたら、案の定失敗する。そしてその失敗を、自分からリカバリーにかかる。ここで少々派手にアピールする。今問題が起こっているけれども、それをリカバリーしましょう。こうしましょう、と。第一段階が仕上がっているのだから、皆の信頼も自分に向いている。問題が起こっている以上上司も従わざるを得なくなる。

そして、問題自身は解決する。

そうすれば、上司も簡単に物言いができなくなるし、そもそも居心地が悪くなる。自分の言ったとおりには部下は動かないし、優秀な部下は思い通り現場を動かしているし、さて、自分のいる意味とは、ぐらいまでに悩みだす。

過去、この方法で何人かの上司を飛ばしたことが、私の記憶にある。そもそも、あの時代、就職氷河期のころは職場において、「居心地」とか「働き甲斐」みたいな議論は全くなかったからね。結果主義、成果主義のようなものが強かったから、職場で働き続けるのも戦い、という状況もあった。

今の方達が、こんなことをした方がいいとは言わないが、ヤバい上司がいる、だからダメ、とは思わないで欲しいということだ。ヤバいということは能力が低いと言うこと。だったら、あなたはチャンスではないか?、ということを言っておきたい。

 

配置転換をせざるを得ないとき

 

人間には適性というものがある。

適性に沿わない役職に、タイミングと成り行きで就いてしまうことは大いに起こりえる。誰かがやらなければ仕方ないから、そこにいた彼がやることになった。そしてとにかく仕事だからと頑張って一生懸命やってなんとか形になったけれど、やはり適性がフィットしていないと能力の向上が鈍化していく。時と共に期待も大きくなっていくのだけど、それに応えられなくなっていく。

必ずしも適性に沿ってアサインしたわけじゃない前提だと、やっぱりこういう方には配置転換をいつか考えてやらないといけない。だって、彼が望んでその役職になったということはきっとない。だって、人間何が適性があるかなんて、何となく予想はついている。適性とかみ合っていないことを、仕事だからと言ってがんばっていても、そりゃあ、苦手なものは苦手でしょうがないよね。私だって食べ物に好き嫌いがあるように、苦手なことはうまくはならない。

一方で、タイミングと成り行きがかみ合わずに役職には付けていないけれど、この人多分やらせたら上手だろうな、という人もいる。いわゆる適性があるのに役職に就けていない。人事って結構タイミングが大事で、仕事が生まれた時にそこにいるのか、それとも現れた時にはたまたまポストが無かった、などよくあることだ。いわゆる埋もれている人材。こういった人にチャンスを与えるのも大事だ。

仕事は常にあるけれど、色んな形に常に変化していて、そこに人が配置される。結構適当極まりない判断で一度配置されるとなかなか変わることもできなくて、適性とはまた別のものさしで職種に吸い込まれていく。でも、客観的に考えると、どこかで歪みは是正しないとそれぞれの良さが発揮されず、全体として成績が出ないようになったり、成長できず苦しむことになる。

だから、配置転換をする。

管理職が考えて、この人はこの方がもっと活躍できる、と画策する。

ところが、たまに、まれに、本人の思いとすれ違うことがある。せっかく一生懸命にやってきたのに、別のことをやらされるのか、と。これが配置転換のリスクだ。人の気持ちを考えないことには、答えはあっているのにたどり着けないこともある。

そもそも、適性のない役職にアサインしてしまった責任は会社にもあるし・・ね。

みんなにうまくいってほしい、ぜひ君にお願いしたい、と言ったところでこれは管理職の頭の中にあるファンタジーの場合がある。

ぜひ、慎重に進めなければいけないし、かついつかやらなければいけないのが配置転換。

これは、やる方もやられる方も、なかなか刺激的だ。

配置転換がうまく行くと、アサインした管理職も、アサインされたメンバーも、両方ハッピーになれる。うまく行かないと、こりゃもうやる前よりひどい状態となる。

人の気持ちのことも含めて、えらく大変な作業だ。

やらなくてもいいなら、やらないんだけど。でもこれは、避けて通れないな。

 

と、配置転換のことを考えてみたんだけど、本当にこれは慎重にやらないと、危なっかしくて仕方ないや。

 

人間系の問題から離れたら、人間系の問題がやってくる不思議

 

このブログの変遷を追いかけている人ならわかるが、マネージャー、と言っても技術系と人間系、全然やっていることが違う。何かのプロジェクトを完遂させるとお金が頂ける、というルールにおいて、そのプロジェクトのプロセスと結果に技術的に責任を持つのが技術系。人間系は、プロジェクトから離れて、元気にしてるか、満足に働いているか、など人間を観察し対応する役割である。

技術系マネージャー。

人間系マネージャー。

この2つを一緒にやるプレイングマネージャーなる存在があるが、やめたほうがいいと思う。どちらかにした方がいい。そんな話をこの前書いたばかりだ。

 

で、私は技術系マネージャーを選んだんだ。というか選ばされたというか。人間系やるより技術系やるべきでしょ、向いてるんだから、と。うーんそうかな、と思いつつも年齢的にもそろそろ決めてかかる時期なので、技術系を選んだ。

そして平和が訪れた。人間と違って、技術は基本的に正直だから、正しい方を選べば再現性がある。科学的に科学的に、正しいと論証されることを積み重ねていけばいいから、何だかある意味とても簡単にも感じる。それは向いている、ということかもしれないね。

 

しかし、面白いね。ある日相談を受けたんだ。仕事のやりかたに悩んでいる、っていう部下をね、この前。

だって、人間系引退したって言ってるのに、人間系の悩みが舞い込んでくる・・。これは興味深い現象だ。

おそらく、人間系に関与しない私に相談するのが、直接の(人間系の)上司に相談するより、やり込められなくて済みそうと思っているからだろうね。

こう見ても私、あまり部下から相談されたことがなかった。きっと、私がプレイングマネージャーで、しかもマイクロマネジメント気味でああだこうだうるさいタイプだったので、部下が寄り付かなかったんだろうな、って今になるとわかる。あれはいかんかった。しばらく、人間系を離れたのも良かったのかもな、客観視できて。

でも、せっかく相談しに来てくれたんだから、力になってやりたいと思うが、昔のように表立って人間系を対応するわけにもいかない。表向きは降りたことになってるから。だから、聴き役にまわり、あとは有力な人も誘い込んでなんとか、相談者の力になってあげたいな、と思う。これも、昔の発想では全くなかったことだ。

なんとなくだけど、解決してほしいんじゃなくて、聴いてほしいんじゃないかな、と思っていて、それをやるか、と思ってる。ほんとはこれ、人間系の管理職がやるべきなんだけど、きっとそうじゃない私がやる意味がありそうな気がする、今回は。とりあえず話し相手にはなってみよう。

 

人間系から離れた途端に、人間系を求められる。

人間系をやっていた時は、人間系の求めが来ない。

なんだこりゃ。

私個人の中の変化等々からこんなことになったのかもしれないし、人生何が起きるかほんと分からないね。何が苦手とか得意とか、分析しても今回のように、昔できなかったことができるようになったりもするので、あんまり自分自身を決めてかからないほうがいい。50歳近くになっても、成長し続けていたりするから、ね。

 

なぜなぜしない世の中は、不祥事だらけ

 

なぜなぜ分析、という有名な問題分析技法がある。

 

 

 

この形式をそのまま仕事でやる必要もないしやってもいいが、考え方はとても参考になる。人の分析なんて「なぜ?」の一段階くらいもしくは二段階くらいまでで止まるので、本当の原因までたどり着けない。だから、なぜ?を何度もやってみましょう、との考え方。

でもこれを始めて聞いたときに、実際自分の思考法そのものだったので、特に何かを習得することなく、あ、これでいいんだ、と自信を持てた。

一方で、形だけこれをやると現場は、なぜなぜ分析を終わらせるために、フェイクのなぜをでっちあげて報告書にするので、中身が伴う必要があるな、とも思った。たいていの「方法論」なんて、偽装と隣り合わせである。

「このなぜなぜ分析とやらをやれば、許してもらえるんでしょう?」みたいな動機でやってもきっとうまく行かない。モチベーションとして「絶対に再発させないぞ!」が無ければ、どんなにいい道具があったとしても、その道具はきちんと使われないのだ。

問題が起こったのはなぜなんだろう。知りたい!、と思う気持ちが強ければ強いほど、自然となぜなぜするものである。そもそも失敗したのは徹底していないから。徹底するようにします!、で終わっているニュースを最近よく見かけるけど、なぜ徹底しなかったのだろうか。徹底して原因究明をしなかったことが原因、みたいなバカし文句もある。じゃあその徹底した原因究明の結果どうなったの?、と。そしたら、「徹底するようにします」が結果だったりして、徹底って言葉が出た時点で思考停止だと私は思っている。

だって、失敗したい人なんて誰もいないからね。徹底すれば失敗しないかって、徹底しても失敗するから問題が起こるわけで。人が普通に生きてて、普通に失敗するので、失敗しても誰かが気付いて修正したり止めたりするような仕組みにしないと、問題は再度起きますよね、ということになる。

街を歩いていても「〇〇強化月間」みたいなポスターがいつも貼られていたりして、いつもよりがんばる、みたいな程度の問題を、原因分析に持ち込むと大いに失敗する。

その状況がどうして起きたのか、どんな場面だったのか、どんな人たちがいてそのとき何をやっていたのか。なぜ本人は見抜けなかったのか。周りはなぜ見過ごしたのか。どうやって失敗までたどり着いたのかを細かく見ていくと、たいてい「普段はこんな状態にはならないよな」「特殊な状態だったな」と言うのがわかってくる。

だから、もう起きない、ではなくてそんな状態が起きても、失敗までたどり着かないように仕組みを作っておくまで行って、初めて徹底という状態にはなるんだけど、「集中して意識において忘れず、気を付ける」みたいな精神論になる傾向があり、それって日本社会のぐずぐずしたところだな、と思う。

そのくせ「責任は私にあります」なんて軽々に言ったうえで「責任を果たしてまいります」と言って責任のすり替えをする方法論が蔓延もしてるし、結局のところこの世の中って、ぐずぐずした場所だなという感想しかない。

つまるところ、世の中のそういうだらしないところって、蓄積して蓄積して結局は爆発して大騒ぎになるのだから、見つけ次第叩いて正しくするのが一番楽なんだと思うんだけどどうなんだろうか。もう隠ぺいしていて許される時代じゃなくなっている、けども。

普通に、問題は、ちゃんと原因追及すればいい、って話よね。

 

目の前の仕事をやっていたらダメなポジションがある

 

組織を運用するとわかるが、ほとんどの人が目の前の仕事をやっている。そりゃ、目の前に仕事があればやるだろう。無くなれば暇になる。組織が暇にならないようにできるだけ有益なタスクを生み出しながら、全体でより大きい生産ができるようになるのが組織運営だ。暇どころかタスクがバーストし、残業続き休日出勤続きみたいな状態になるのは、それはもう運用の失敗としかいいようにない。有益な仕事が多すぎるのなら人を増やさなければいけない。無益な仕事が多すぎるのなら仕事を整理し減らさなければいけない。つまり、仕事をどうするか、という仕事がある。ちゃんと運用しなければ、どこかで歪みが爆発する。暇すぎれば、最近はゆるブラックと呼ばれ、仕事がないのに会社にいなきゃいけない。有り余る時間が過ぎるのを待たねばならず、自分自身も成長しないみたいに揶揄される。忙しすぎれば、それはブラックそのものとなる。有益で忙しいと、案外「やりがい」みたいに翻訳され、従業員もそんなに苦痛を言わなかったりするので、結構感覚的な話でもある。とにかく、目の前のことばかりを人々がやっていると、この先が全く見えなくなり、いつかバランスを崩して組織は終わってしまう。

組織のほとんどが目の前の仕事で忙しい中、私は3か月先の仕事のことを考えていた。誰が何をしてどうなるかを絵にしていたが、目論見が複雑であることに気がついた。もし何もしないで3か月後を迎えたら、きっとアドリブで色々決めていって調整に追われたのだろう。目の前の仕事は、十分な準備が整っていて初めて有益になりやすい。十分な準備とは、未来を見通すことそのものだ。時間があるうちにその時のことを具体的に想像して、誰が何をして、それが誰に引き継がれ、そして誰の助けが必要で、それはいつで。これは予想とか予言とか言う話ではなく、想像力だ。言語化はもちろん必要だが、ビジュアル的なグラフとか図とかの感覚も必要になる。組織の皆が効率的に働いていることを前提としたときに、どんな準備をしておくのがいいかを想像し、1つ1つ書類にまとめていく。

この、将来を見通す仕事。目の前の仕事に追われているとできない。だから組織の全員が忙しい状態は将来の悲観的な組織の姿を暗示していると言ってもいい。目の前の仕事をしていない人、これは「働かないオジサン」とも揶揄される気はする。目の前の仕事でみんな忙しいんだから手伝えよ、と。いや、それをやったらおしまいになる。将来の準備を誰もしなくなったら終わる。

この将来の姿の解像度を上げて、メンバーに、そして顧客に感謝されることが重要だ。ああ準備しておいてくれてありがとう、おかげで皆が効率的に動き、手戻りもなく、品質のよい成果をたくさん生み出すことができた。これを導き出すためには、一人だけ先を見ておく必要がある。働いていないわけではないのだ。

 

オフィスでは、みんな聴いている

 

オフィスで働くと、いろんな音が聴こえてきてうるさいな、と思う方だけど、これは逆に言えば聴こえているということだ。たくさんの情報が空気中に渦巻いていて、これらをノイズと思うか、それとも目に見えない情報ストリームと思うかで話が変わってくる。家でリモートワークをしていたら決してつかむことができない。

私のオフィスにはいろんな部署の人が並べられているので、99%は私に関係のない情報だ。私の部署のメンバーはもちろん私に近いので、関係のある人の話し声が一番大きく聴こえてきて、まあこれはよい。でもたまに、声が大きい人がいる。遠く離れていても聴こえてんぞ、ということもよくある。これをうるさいと思うが。

たまに、「おいおい、その情報、本当に私に聴こえていいの?」ということもある。例えば人事評価とか。金額の話とか。目の前に話したい人がいるから話したくなるのはわかるけど、周りの人々、みんな聴いてるからね。普段関わりがない人々を、あたかも空気のように扱う延長で、機微な話を堂々としているようだけど本当に危ないと思う。あの人があんな話をしていたよ、という情報が制御できない形で伝わってしまう。

コロナ禍も長かったものね。しばらく家で働くことが普通になっていたことが長くなってしまったせいか、オフィスでの作法、リスクみたいなものに無頓着になってしまったのかしら。それとも、自分の役割が高いと、何を言っても許されるという気持ちになり制御が効かなくなってしまうのだろうか。高い役割の人は影響力が強いので、細かい行動から発言から全て部下に監視されているようなものだと思う。裏を返せば高い役割の人がより出社すると、部下たちも出社してくる。情報が欲しいからだ。だからこそ、オフィスでの立ち回りって、ビジネスチャットで言えば全社員参加グループチャットのようなもので、簡単に油断した発言をしないように気をつけなきゃいけない、と思っている。

考えてみれば若いときは、その役割の低さと向こう見ずな性格で、色々奔放な発言を繰り返してきたような気がして恥ずかしい気持ちはある。でも過ぎたことを言ってももう取り返せないので、少なくとも今を生きる人々に伝えたい。もう世間で声を出すと、そこにいる関係のない人々も含めてみんな聴いている。わけのわからんことを言い出すとほとんどの人が「お、何だ何だ」と耳を傾けてくる。あの上司、パワハラ上司やん、とか、あの社員、クセ強いな、とか。もうみんな知らないふりして黙って、いろいろ想像して、感想をしたためていると思うと、簡単なことを言えなくなるのは当然だと思う。

そんなことを考えつつも、やっぱりオフィスにいるとウケるくらい、色んな人が脇の甘いことを言っているのが聴こえてくる。ほんと大丈夫なのかね、我が社の人間がもしかしたら、のほほんとしているのか?。ま、情報は多いに越したことはないので、割と出社してこの情報ストリームを受信している。自分が話をするときには、あくまでもひそひそと。遠くまで聴こえないように、そして感情を込めないように。感情の強さは伝播するから、例えば怒ったり叱ったり泣いたり・・なんてことは大人だからないにしても、言葉の強さの節々にはみんな感じてしまうわけだ。穏やかに、静かに話そう。

オフィスはお得な情報を得られる反面、自分がミスすることもあり得る。戦場なのであって、アットホームな職場・・なんてない、と思う。

 

重要な判断をする前に48時間の猶予を設けよ

 

この土日、あってよかったな、と思う。

 

平日だったらすぐ動いて、すぐ変えてしまっていたかもしれない。

私は今、重要な判断をすることを迫られていて、かなり考えて出た結論のようなもの、がある。その結論通りに導けば、きっといろんな人がうまくいくようになる。仕組みの変更、と言うべきか、そういうことをやらざるを得ない場面に遭遇してしまった。

ただ、大きな変化を伴うので、プロセスを間違うと色んなことが同時にうまくいかなくなる恐れがある。実行には慎重さが必要なのは間違いない。

目の前に問題があり、早く楽になりたい、というので結論に飛びつきたくなるのだが、そこにたまたm週末があった。土日があった。

さすがに土日は仕事という意味では何もできないので、その結論について何度も考察を繰り返している。休めばいいのにやっぱり気になって、ふと考えてしまう。

そのうちに、色々出した結論に対して気になるところが出て来た。結論を進めるとしても、もっとソフトランディングで対応できるようにならないか。また、話を切り出す順番も、もっといい方法があるような気がしている。

何事もスピードが大事だし、変化に合わせて柔軟に変えていくことも大事で、すぐやれ、は全て良いものと思いがちだが、そうではないこともある。大きな決断こそ、時間をかけた方がいい場合もある。

決断を先延ばしにすることはストレスなので、つい、すぐ動きがちになる。だからこそ、土日の存在はラッキーだった。土曜日は外に出かけてとりあえず、仕事のことは考えなくてもいいように遊んできた。頭の片隅ではいろいろ考えていたけど。今日はじっくり家にいて考えている。

おかげで、拙速な方法は取らなくて良さそうだ。修正点が見つかった。

結論は正しいとは思うけれど、やり方はいろいろある。そして最も安全な方法を選ぶ必要がある。慎重さが必要である。

 

大きい決断は、本当は色んな人の意見をきいてゆっくり決めた方がいいけど、あんまりやり過ぎると相談した人たちが勝手に横で話し始めて制御できなくなったりもする。だから、ある程度結論まで見通しながら、話を聴くとしても全体として時間をかけず、そして素早く結論を決めなければいけない。

だから、始めてしまったらすぐに話が転がり始めるので、話の順番やその話す内容が大きな影響を与える。順番を間違えて誤解が生まれることなんて日常茶飯事である。

事前にやっている、ああでもないこうでもない、は「計算」であると思う。将棋指しが先の何百手まで考えるのと似ていて、現実世界でも次の一手を何百通りも頭で考える。これには「時間」が必要だ。頭がずっと計算を、時間をかけてやり続けている。

今回体感して、この計算に「48時間」かかる、と思った。24時間じゃ足りない。何しろ拙速な行動で「やらなきゃ良かった」「言わなきゃ良かった」とならないために、2日間は我慢してストレスに耐えよう。悩むほどでもないならすぐにやってしまえばいいが、悩んでいないと言うことはそれほど重要な判断ではないのだろう。逆に、48時間以上かけるともうそれは悩みすぎ、行動しなさすぎ、なのかもしれない。

 

オフィス出勤したら一声かける運動をしている

 

マネージャーではあるが偉ぶっているとは思われたくない。

けど、若手の態度を見ていると、ああ怖いな、恐れているんだろうな、ということはわかる。気を遣って話しかけてくれている。

そんな上等な人間じゃないよ、気さくに話しかけてくれていいよ、と本人が思っていても親子ぐらい年が離れているから、生理的に緊張はするだろう。理解している。

だからこそ、私から、立場が上の人から能動的に、部下に話しかけてやらないと私と話をする機会を作るのが大変だろう。今ではビジネスチャットなどデジタルツールもあるので、物理的に話しかけなくても用事が済んでしまう中で、対面で私に話しかけてくるには作戦が必要だろう。今日は寒いですね~、なんて言ってくれる部下がいればいいだろうけどそこまでフランクな部下は私の周りにはいない。

部下によっては、何となく私と会話したいだけのために用事を作って話しかけてくれる人もいてありがたい。意地悪せずに話しかけてくれたことを「感謝」して対応するようにしている。

一方、私も同じことをしなければいけないな、と思う。上から動いた方が圧倒的に楽だからだ。あの作業大変だったね、とか、準備は問題ない?とか、事務的でも何でもいい。とにかく一日一回何か話しかけること。また、その時に何か問い詰めるようなトーンにならないことは重要だろう。そういうマイナスの会話ばかり使っていると、彼らは話しかけられた時に「ひっ」と言う顔をするようになる。また何かやらかしたんですかい、私は?みたいになってしまう。

だからと言って近づいていき、「君のここすごいね~!」なんて思ってもいないのにご機嫌取りで話しかけていたら、それはそれで鬱陶しいし権威失墜である。案外話しかけるのはテクニックが必要だ。

ロジカルには話しかけなくたって済んでしまうんだけど、何か仕事の周辺でもいいから、「この話ってどうなったっけ?」みたいな話題を振ってあげ、上司のために役に立ったことを感じてもらうのがいいかな、と思っている。

調べればわかることを、ITの力を借りずに部下に質問して充足する。

これもやりすぎると「ぐぐれ」となってしまうが、一日一回くらい、チャンスがあればやるようにしている。誰かにわざわざ頼って問題解決してみると、誰かと一緒に解決したという経験が得られる。

そういうのが、私は飲み会で仲良くなるよりも、誰かと信頼関係を作る基盤となっている。彼と私で同じ方向を向いて、共通目標のために真剣に仕事に取組み、皆で達成する。そこで、直接会話を適切な量交わすことが重要なインフラになっているなと感じる。だからこそ、毎日ではなくともオフィスに一緒に出て、一日過ごすことで、それとない会話をすることができるきっかけとなる。

もっと器用な人は、もっと親しくなったり飲み友達になったりとうまくやっているんだろうけど、私はそういうのは性格的に遠慮している。距離が近すぎると仲がこじれるリスクがあるので、良い距離を保って仕事仲間でいたい。だからこそ、あまりにもドライにデジタルに閉じて仕事をするいわゆるフルリモートのような働き方は、すごく「一声かける」が難しかった。それがあのコロナ禍の頃の反省点でもある。興味本位ですごくフルリモートに倒してみて、すごく効率よく働けた思い出だけれど、人間関係の構築はうまく行かなかったと感じた。

人の関係なんて、踏み込み過ぎず、離れ過ぎず、心地よい距離感を長い間続けていくことの方が大事だと今は思っている。技術力がどうとか仕事ができるとか以上に、そっちの方が重要。一人で完結する仕事なんて大したことがないからだ。

 

ものごとを実現するためには、正しいだけでは不十分

 

詳しくは書けないけど、週明けにやりたいことがある。

このやりたいことを実現するには、私以外の人々の協力が必要になる。それぞれ役割があって、協力のために調整を行わなければいけない。

調整するときに、順番がある。全員同時に調整するわけには物理的にいかないので、この人が先、次にこの人、みたいなシーケンスがあって、かつそれぞれの人に口止めもしないといけない。私以外から情報が伝わってしまうと、曲解して思っても見ない感情を持たれるかもしれない。

コンピュータって、設定すればその通り動くので本当楽だわ、と思う瞬間がある。できればずっとコンピュータをさわっていたいのだがそうは行かない、会社は人間でできているのだもの。

今、頭の中でずっと考えているのは、どうやったらこの数珠繋ぎが成功するか。誰に伝えて誰に理解してもらい、そして皆に理解してもらったら次はどうやるのか。

アイデアとしては秀逸。でも間違えたら、やらないほうがマシ、になる。過去の失敗経験でもそういったことは、あった。

いくら正しくても、間違ってしまうことはある。正しいのだから正しい結果を導きたいのだけど、その場合「プロセス」が大変重要になる。

絶対に正しいのにな、と今は思っている。

正しいんだからやればいいじゃん、と。みんなに言えば「それは正しい!すぐやろう!」と思ってくれるはず。

・・はず、ってのがポイントで、そうならないこともある。

 

どうやったらうまくいくだろう。

①調整の順序を間違えないこと。基本は上席から先に相談していく。

②仮に、調査や底固めのために、上席ではなくメンバーと相談する場合は、口止めを忘れないようにする。本当は口止めするくらいならしない方がいいという考え方もある。

③調整は電撃戦である。時間をかけていると絶対人から人に漏れる。

④抵抗勢力が現れたら、戦わず撤退することも考えておく。そんなに正しいことなら、本来抵抗などされないはずだから、一度取り下げると良いことがある。

こんなところだろうか。

結構これを間違えて痛い目に遭ってきたんだよな。正しいと信ずる心は美徳なはずだけど、それは過信が招く。自分の中で正しくとも、他人には思い切り反対される可能性もあるので、慎重に慎重に自分の意見を表現していくことが求められるし、それができないならだいたいのことはうまく行かない。

 

なお、これを思いついたのは金曜の夜。しかもお風呂に入っている最中。人間不思議なものね。悩んでいるときの答えってなぜか、仕事のことなのに仕事をしていないときに降りてくる。もし次の日が仕事だったら一気呵成に調整に走ったわけだけど、週末をはさんでいるのは何かの理由かもしれない。少し寝かせて、本当に正しいのか、穴はないのか。調整の順番は正しいか。その日の動きは具体的にどうするのか。

色々なパターンを思いつき、さてどうするかを週末で考えることになるだろう。

うまくいったら、さぞうれしいだろうな。それぐらい、今回のこのアイデアは、私にとって大事な場面なんだけれど、うまくいきますように。これだけ一生懸命考えてあみだしたんだから、やり方さえ間違えなければ、多分、大丈夫なはずであるが・・。

いやはや、調整ごととは難しい。上手な人は偉いわ。

 

問題が無いと感じる状態とは、問題が無いのではなく見えていないだけである

 

問題が無いと感じる状態

最近、問題が無いな~、と安心しきっていたのだが、どうもそういうわけではないらしい。問題があることを知ってしまった。それも、一朝一夕には解決しない問題。私は未来を予想するのが好きだが、予想した未来が悲観的である。このまま放っておくと良くないことが起こる。だからこそ行動しなければいけないが、行動したところで簡単に解決できるわけがない、そこまで見通せる。

昨日までの私は問題がないと思っていたわけで、だからこそ心も軽くいられたわけで、知らなければよかったかというとそうかもしれない。地球のどこかでは戦争が今日も継続しているのに、報道されず知らない、というだけで、ほぼないことになるのだから、人間の知覚、理解というのはかなり主観的なんだなというのがわかる。SNSでは入ってくる情報すらオン/オフできるので、「知りたかったことだけ知る」という人生が可能であり、だからこそ今人々の快適度は上がっているのかもしれないな、と思った。

知りたくないニュースが入ってきたら見ないようにするというのは、まあ、知るということが素晴らしい事ばかりじゃないということの証左なのかもね。

 

問題を知ってしまった

けれど、仕事の話となったらこれは、見て見ぬふりはできない。知った時点で何もしないことは、何もしないという行動となってしまう。悲観的な未来を受け入れることになってしまうので、これは回避しなければいけない。じゃあ昨日まで生きていた世界は、問題が無かったのだから、私としては急に問題が現れたように思うが、実際はそこにあった、のである。問題が無いと感じる状態は、問題が無いことでは決してないということがわかる。問題なんてあるのである。気づかないことも時には良いことかもしれない。目に見えないところで勝手に解決されることもあるから。でも見えないふりばかりしていたら、こっちに向かって問題が飛んでくることだってありえる。見えないことはないことと同じ、なんてことはあり得ない。

知ってしまったら、自分が問題がないことに気づかないでのほほんと生きていたことに、向かい合わなければいけなくなる。

 

トラブルシュート

というのが今日の今の時点の私なのだが、何度もここから過去、失敗してきたことを思い出す。「拙速」が多い。問題がある状態に対して耐性が無い傾向にある。すぐ解決したくなっちゃう。しかし、この手の「見えなかった問題」というのは、きっと本人、私にとって得意な分野ではないことが多い。見て見ぬふりをしていたのは、自分の潜在意識なのかもしれない。だって、そこにあった問題なのだから。

みんなー、あそこに問題があるよー、と周りに騒いでみる手をやってよく失敗していた。「あなたは今問題に気づいたかもしれないけど、もうみんな知ってるよ」みたいなことが多かった。多分気づかないほうがいいと自分の中で制御が働いていたのかもしれないな。周回遅れなことも多いので、あえてこの問題に対して、自分でリードするのはやらないでおこうと思う。問題と向かい合い、知っていくことから始めよう今回は、と思う。

こうやって書いていても、「ああ知りたくなかったな」というのが本音であったりする。でも知ってしまうということは、もう逃げられないということなので、じゃあ次にやることは、逃げずに直視し、そして拙速に行動せず内容をよく知ること。そして軽々に何か判断して問題を無かったことにする行動を取らないこと、だな。